october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

「急に具合が悪くなる」 宮野真生子、磯野真穂

9月に入った途端に太陽の力が弱まり、最近はめっきりと涼しくなった。連休最後の火曜日は空も風も澄みわたる素晴らしい秋晴れで、この気候があと三ヶ月続いてくれたらいいのにと思わずにはいられない。でも台風12号が来ていて、今日からは雨。気圧の頭痛はこの際耐えますから、どうか進路が逸れますように。

 

 

 

夏の盛りに、何となくネットサーフィンをしていたら見つけた書評ブログを読んで気になり、本屋で平積みになっていたのを手に取った。

哲学者の宮野真生子さんは再発乳がんの肝臓への転移が発覚し、主治医から急に具合が悪くなる可能性があることを告げられた。

 

 主治医に「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われたのは2018年の秋でした。
(中略)
「具合が悪くなってから、どのくらいもつものなのでしょうか」
「これはあくまでひどい場合ですよ……ただやっぱり肝臓ですからね、悪くなる時は一気なんです……。たとえば急な方ですと三週間で亡くなられた方もいます」
「え、三週間? 三カ月じゃなくて?」
 さすがに声をあげたことを覚えています。
(P25 1便 急に具合が悪くなる)

 

そして、宮野さんが参加予定だった仕事のイベントについて「急に具合が悪くなり迷惑をかける可能性があるから、開催をやめたほうがいいのか?」と、医療人類学者の磯野真穂さんに投げかける。そこから始まる、10通ずつの往復書簡だ。

10回にわたる手紙のやり取りの中で、二人は確率について、病について、可能性について、不運と不幸について、死について、患者であることや患者を取り巻く人たちについて、出会うことについて、関係を築いていくことについて、生きることについて、真摯に、丁寧に、鮮やかな言葉を重ねていく。宮野さんが後半、本当に具合が悪くなり死に向かう最中でも、力強い、まっすぐな言葉の真剣勝負が続く。

 

 けれど、私たちはそんな唯々諾々と不運を受け入れて「腑に落とす」必要なんてあるのでしょうか。私はないと思います。わかんない、理不尽だと怒れば良い。そんなものは受け入れたくないともがけばいい。
 ところが、目の前に合理的に見える説明形式や、わかりやすい物語が提示されたとき、人はそれを受け入れるべきだという社会的な通念は現代社会にも強く存在していると思います。なにより、その方が合理的で楽でしょう。結果的にそれが自分を余計辛くするとしてもです。なぜなら、わからないものと対峙するのはしんどいし、怒り続けることも難しい。だから、私たちは「わかるとされていること」にすがり、流されてゆく。
 でも、わかる必要などないのです。
(P120 5便 不運と妖術)

 

だんだんと宮野さんと磯野さんの心が近付いていく過程や、それについて二人が様々な言葉で意味を結んでいこうとするところ、だからこそ苦しい部分も切ない部分も全部ひっくるめて、心が震える。

手紙というプライヴェートな形態で始まったものが、幾つかの出会いにより本の形になり、出版され、うちの最寄りの本屋でも平積みされ、手元に届いたというその全部をひっくるめた幸運。一歩を進むための力強い光となるような、この先、生きていく中で、色んな場面でお守りになるような、あるいは道しるべになるような、そんな言葉たちだ。

 

 関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いに取って心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。
 これこそが関係性そのものであり、そして、そんな何本ものラインが動きを止めず、世界を通り抜けるラインを次へ次へと伸ばしながら時に交差し、場所となり、でも動きは止めずに先に進んでゆく。それが多様性なのではないでしょうか。
(P189 9便 世界を抜けてラインを描け!)

 

できれば、この記事を読んでいる貴方も読んでみて欲しい。
そして、同じ光を受け取って欲しいと願ってしまう。

傷つくのを恐れて立ち止まって、ただ何かの幸運が訪れるのを待っているのではなくて、勇気を持ってボールを投げて軌跡を描き、関係を持つこと、続けていくこと、築いていくこと、その中で描かれるラインの美しさと、そこまでたどり着いて初めて見える世界の美しさについて。自分が生涯で描けるラインの数や、受け止めることが出来るボール、見ることが出来るかもしれない風景、見たい風景、について。考えて、またボールを投げる。受け止める。いつか貴方とも、美しいラインを描けたら良いなと、願いを込めて。

もう全然言葉にならなくて、この記事を書くのに時間が掛かった。
むしろ何も考えずに呟いただけのツイートは、けっこう見てもらえたし、読みましたとも言って貰えた。そういうこともあるよね。

記事を書いてもまだ感じたことの半分も言葉にできていないし、多分全部は消化しきれていないので、何度でも読み返したい。

もう自分をデブとは言わない話

 「デブ」ほど、日常に溢れ返っていて、何十年も廃れもせず、今も昔も相も変わらず人々を呪い続けている言葉はないんじゃないかと思う。リアルでもネットでもテレビでも色んな場面で色んな使い方をされており、愛をこめて言われる場合もあるが、大体においては罵倒、悪口もしくは卑下の言葉になる。

だがデブに明確な定義はない。肥満は定義がはっきりしているが(BMI25以上、日本の場合)、デブはない。身長はみんな違うから体重の話をしても仕方がないし、むしろデブと言われてしまったらデブだ、みたいなところがある。あるいは「痩せていなければ」みんなデブだ。そして、自分がデブだと思ったらデブだ。女性の場合は、特に。私も思春期以降何度もダイエットをしては挫折するを繰り返してきた。

確かに、決して痩せてはいなかった。私は10代を海外で過ごしたのだが日本にいる祖母から送ってもらった雑誌のセブンティーンを読みながら「日本にいたらこの太い脚でミニスカートをはかなきゃいけなかったのか、よかった……海外にいて……」と呟き、砂糖いっぱいのネスティー(ピーチ)を毎日2缶飲んでいた。甘味のない飲み物は好きじゃなかった。フライドポテトも毎日食べていたし、ヴルストもよく食べた。

BMIは23.83で肥満(25以上)までは行っていなかった。とは言え、友だちはみんな細かったので自分はデブだと自覚していたし、外見にコンプレックスをもっていた(これはまあただの思春期あるあるだが)。

18歳で帰国してもう少し年代上のおねえさん雑誌のダイエット広告を見ると、人生最悪期!などと書かれているビフォーの体重が自分とほぼ同じだった。2000年前後のことだ。「お前は痩せなければ人生終わる」と言われてるみたいですごい嫌だった。で、そこからダイエットをして少しだけ痩せた。美容体重からは程遠かったが、スカートは履けるようにはなった。そして、そこらへんの体重から大体+5キロ〜−3キロくらいの範囲で、ずっと来ている。

多分最大の頃でBMI24前後(妊婦時代除く)、最も細かった時期は(最大瞬間風速的に痩せた結婚式前後の)BMI19ちょい。
今はBMI22.8くらい。コロナの引きこもり生活になって3キロ増えた。

ちなみにBMIとはBody Mass Indexのことで体重と身長から計算する、肥満度を表す体格指数だ。計算式はこちらにある。
標準体型は、BMI18.5~25の間。
そして日本肥満学会はBMI22を標準体重、統計上最も病気になりにくい体重としている。

私は医療に関連している業界の隅っこで働いており、業務で海外と日本の医療事情や医療制度を調べたり比較をしたりしている。

日本肥満学会ではBMI25~30未満を肥満(1度)としているが、WHOの判定基準ではもう一段階上の30~35未満が肥満(1度)で、25~30未満は前肥満となる。そしてアメリカでは成人の4割近くが肥満とされているが、その基準はWHOの方、つまりBMI30以上。なので、アメリカでは日本の基準に合わせると、おそらく国民の半分以上が肥満ということになる。

日本にはあまりいない重度の肥満の人口も多いし、病気として治療対象にもなっている。アメリカでは抗肥満薬はダイエットという軽い響きではなく、もう少し重い、命を落とす疾患に対する治療……という位置づけで研究開発されている。(そして、アメリカの肥満問題は(特に)貧困や格差の問題と切り離すことが出来ない。別の話になるので、ここではこれ以上深くは触れない)

が、やはり、そう考えると日本は標準体重を保てている人が多い。そして実際、統計的に健康である数値の範囲にいるのであれば、それで万々歳じゃないかと思うのだ。

健康に問題がなくBMI18.5~BMI25の間であれば、自分が快適に過ごせる体重で過ごしたらいいじゃん。

ダイエットしたきゃしたら良いし、自分の理想に近づけるのは自由だけど、別にいちいち自分のことデブだの太ってるだの言わなくていいじゃん。

と、いうことだ。

私はBMI22強で美容体重からは程遠い。でも自分をデブとは言うのも、思うのもやめた。自分の体型を人に説明する必要がある時には中肉中背と言う。

子どもの保育園の同じクラスのお母さんたち(みんな細い)の中では、相対的には太い。でも、だからどうした、と思う。恥ずかしいともヤバいとも思わない。

これから体重が増えてもBMI25を超えなければ「太っている」とは言わないようにする(もちろん超えたら「肥満だ!」と事実を受け止めるしかないが)。特に「デブ」は自尊心を削る言葉で、本当にギリギリまで追い込みたいときには有効かもしれないが、やはり責められるべきではないことに対して、そうした言葉でハッパをかけることは健全ではないと思う。

で、私は自分をデブとは言わないが、現在はダイエットをしている。
体脂肪率コレステロール値が高いので下げたい。そして自分が快適に過ごせる=自分が気に入った服を自分が着たい形で着ることができる、と言う所までは適度に身体を絞りたい。フレイル予防に運動習慣も付けたい。

でも本当に適度でいい。美味しいものも食べたいし、おやつも食べたい、お酒も飲みたい。そんな自分をダメだとも言いたくない。ダメじゃない!
痩せたらあれをしよう、とかも考えない。したいことは今もしている。
タイトなジーンズに戦うボディをねじ込むことは出来ないが、だからどうした。緩いジーンズを履いたって戦える。あと別に戦わなくてもいい。
ノースリーブから覗く腕が多少むちむちしていようが、人から文句を言われる筋合いはない。
むちむちの腕を人前に晒しちゃいけないという法律はないのだ。
目障りだ、なんて言ってくる人の方がただの迷惑クソリプ野郎ではないか。

これは甘えでも開き直りでもない。むしろ人生を快適に過ごす為の戦略だ。
こんな世知辛い世の中で、頑張って生きてるだけで偉いのだ。

心も、身体も、健やかな状態でいるのが一番だ。その為に認識や言葉使いをちゃんと改めましょうという自分への誓いでした。

 

※相対的に太った、痩せた、という言い方はする。でも「(半年前に比べて)太った」と「私は太っている」は意味が全く違う。

BMIは万能ではなく、標準体型でも体脂肪では肥満と言うことはあるので、そこは注意だと思う。

葉月の俳句+自分の句の添削してみた。

7月中に発生した台風がゼロで今年は冷夏だなんだと言われたが、梅雨が明けてみれば連日ひっくり返りそうな猛暑だった。7月から減らない感染者数に怯えつつ、いつもはまとめて一週間ほど取る夏休みを分散させて毎週金曜日に入れ保育園を休ませた。週5タスクを週4でこなして回していたのでそれなりに仕事も忙しく、金曜は休みだからと行ってどこに遊びに行けるわけでもなし、ゴーヤは二つしか実を付けず、ミニバラのグリーンアイスが暑さに負けず咲いているのを唯一の楽しみにして凌いだ夏だった。子は相変わらず熱を出すし、色々と疲れ果て夜は寝てしまい、朝も起きれず、句作も文章も進まず、noteの更新も止まっていた。でも9月に入った途端に少し過ごしやすくなったので、そろそろ動き出したいなぁと思う。夏がひと段落した今、流石にこの半年で増えすぎた体重はいくらコロナを言い訳にしていても減ってくれるわけではないと気付き、本格的に減量を始めることにした。あすけんにちまちま食事をインプットし、昼休みにはリングフィットかフィットボクシングをしている。いつまで続くかな。


葉月の俳句

さて、上記のような状況だったので、てふてふに投句できた8月の俳句は数が少ない。また、ネット句会や角川俳句にも投句することにしたので、毎日投句できるかはわからないが、それでもできるだけはしていきたい。投句数は18句、トータル878いいねで現在2級。一番高かったのは17いいね、低かったのは7いいね。


冬瓜に籠って暫し休みます

17いいね。冬瓜は秋の季語。冬まで保つから冬瓜という名前で、夏の野菜なのに秋の季語というのが何だかおかしい。生協で買った丸ごとのミニ冬瓜が「このままだと冬まで保つんだよなぁ」と思いながらキッチンに起きっぱなしにして2週間放置していた。中は柔らかで似るとちゅるちゅるつやつやとろとろになるのに、皮は鮮やかな緑のまましっかり固い。でもごわごわした所は無くて、優しい強さ。あ〜、疲れたこの中に入って守られたい……と言う心の表れでした。


秋の朝スコーン二つ温める

17いいね。椿山荘のスコーンを手に入れたので、少しだけレンジとトースターで温めてみた。8月の終わりは、俳句だともうすっかり秋である。


ねこじゃらしスッと採れるのとれないの

15いいね。保育園からの帰り、毎日毎日道ばたに生えているねこじゃらしを採って採ってとせがまれる。自分でとりなよと言いながらも、引っ張ってみるとスッと採れるのと、固くて全然採れないのがあることに気付いたので詠んでみた。季語はねこじゃらし(秋)。


掃除中こんなとこからねこじゃらし

14いいね。毎日ねこじゃらしを持って帰るので、家のどこかに落ちている。もちろん見つけたら拾って捨てているが、掃除してたら洗面台の下の奥から出てきたので、おやおやとおもった句。


君の居ぬグリーンカーテン夏来る

14いいね。グリーンカーテンでしばらくあおむしを飼っていた。アシナガバチが頻繁に偵察に来るのだが、あおむしを狩るためと聞いていたので、あわよくばアシナガバチVSあおむしバトルが見れるのでは!?という残酷な下心があったのである。しかしあおむしがでかくなりすぎたのか、アシナガバチは興味をしめさずふうせんかづらの花の蜜を舐めるばかり。あおむしはのびのびと過ごしていたが、7月の終わりにグリーンカーテンになっていたなけなしのゴーヤを齧っているのを発見し、駆除された。そしてその翌日に梅雨が明けて、夏が訪れたのであった。あおむし、ごめんな。ゴーヤは齧った所を除去して、ちゃんと食べました。小さかったけどちゃんとゴーヤだった。

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自分の句を添削してみた

さて、句作を始めて3カ月、独り相撲で書いていても良いのか悪いのかあまりわからず、どうやったら上達するのかもわからないし、少し悩んでしまった。俳句雑誌や、気になった俳人の句集などを読んでると、ひっくり返ってもこんな風に詠めないけど、でも詠んでみたいし、上達はしたい気持ちはある。コロナ禍じゃなければ句会に参加してみたいが、流石に今はちょっと難しそう。なので、句作を始める前に読んだこの本を再読して、過去の自分の半端な句を推敲してみることにした。

五七五で毎日が変わる! 俳句入門 www.amazon.co.jp 1,430円(2020月09月05日 23:01 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する

五七五で毎日が変わる!俳句入門 堀本裕樹

この本は、実際行った吟行句会をベースにして、句の添削をしながら俳句技法の解説をしているのでとてもわかりやすい。前に読んだ時はまだ句作をしていなかったので、さらっと読んでしまったが、今読むと改めて「な、なるほどー!」となる点があって、面白かった。

「暗い印象の内容」には「明」のイメージの季語を、「明るい印象の内容」には「暗のイメージの季語を使うと、コントラストが生まれる。(Lesson 2まとめより 35P)
言葉選びが説明的で音数を無駄にしていないかチェックする。(Lesson 4 まとめより 63P)

このあたり、なんとなくわかっていたつもりでも見返したらなんじゃこりゃーってなってるのがたくさんあった。

添削① アガパンサス異界を覗く無数の目

文月の俳句にも登場したこの句。季語がないのが気になっていた。(アガパンサスは季語じゃない)また「異界を覗く無数の目」がちょっと説明的な気がする。それにそもそも「アガパンサス」で上五が字余りである。なので、ここは「アガパンサスは異界の目」にしてしまい、上五にしっくりくる季語を探すことにした。

上記のアドバイスを元にすると「アガパンサスは異界の目」はちょっと不気味で暗い感じがするので明るめの季語を持ってくる方がよさそう。でも、この不気味さというか、重さみたいなものは大切にしたい。アガパンサスは夏の花だし、私は切り花からイメージを得たが、本来は外(庭や玄関先)に咲いていることが多いので、強すぎる日のイメージを当ててみることにした。

日の盛りアガパンサスは異界の目
炎天やアガパンサスは異界の目

うーん。炎天や、のほうが良い気はするけどまだなんとなくピンとこないな。と歳時記をぺらぺらして、見つけたこちら。

大西日アガパンサスは異界の目

「西日」は夏の季語。強くて暑くてべったりと重い、そんなイメージ。大西日だと、更にそれが強くなる。逢魔が時に繋がる午後の時間帯だから、異界のイメージとも近いし、何かちょっと迫力もある気がする。夏の午後、暑すぎて誰も外を歩いていない住宅街の隅っこに無言で咲くアガパンサス、強い西日の下で影も濃い……というイメージ。うん。ということで、これにしました。元の句よりは良い気がする。


添削② 梅雨寒に黄色き雄花男子校

これは個人的にはめっちゃ気に入っていた情景を詠んだ……つもりなんだけど、全然しっくりこないな。梅雨の間にせっせと咲き出したグリーンカーテンのゴーヤの花が、雄花ばっかりで全然雌花が付かないので「これじゃあ男子校だな」と思った句。でもゴーヤが秋の季語だったので、夏の季語のほうがいいのかな……と無理矢理、梅雨寒を入れた。「黄色き雄花」にすればゴーヤの花だってわかるかな、と思ったのだ。でも今見返すと、そこまで説明する必要はなかったかもな。苦瓜も入れてしまっても良いかも。

苦瓜や雄花ばかりの男子校

うーん。男子校、って……思いついた時は「これだ!!」ってなったけど、入れなくてもいいかも。雄花ばかりと、男子校って何か言ってることが被るし。あと苦瓜やにしてしまうと、これはこれで説明的な気もする。なので、やっぱり夏の季語に戻すことにした。

夏の露雄花ばかりが咲きにけり

季語の夏の露は、夏の草や緑に付く朝露のこと。爽やかさやフレッシュさを入れてみた。男子校は外して、切れ字にしてみました。少なくともこの方が句としてはさっぱりしたんじゃないかな。


添削③ 夜深し遠くにサイレン我ビール

説明し過ぎだし、三段切れになっている(夜深し/遠くにサイレン/我ビールと3カ所で切れること。基本的にはあまりよくないとされる)。そして何より意味がわからない……。

これは、家族が寝静まった深夜に一人でぼんやりビールを飲んでいたら、遠くに救急車のサイレンが聞こえて、ぼんやりしていた時の句。ただその詩情がまったく出ていないと言うか皆無だな。季語はビールなんだけど、これはビールの良さが出る句ではないので、他の季語にしたほうが良さそう。夏の夜と迷ったけど、梅雨闇にしてみた。

梅雨闇やサイレン聞いてひとり酒

これだとわざわざサイレンを聞いて飲んでいるような、そして酒がメインのような感じがしてしまうので、あんまり「ぼんやりしていた」感じがでないなぁと。

梅雨闇に微酔いで聞くサイレンや

言葉と語順を変えて、切れ字の「や」をサイレンにつけてみた。良い句かどうかは別として、自分の言いたかったことには近付いたかなと思います。


添削④ 黒南風や戸廊下窓へ小嵐

黒南風はくろばえと読む夏の季語。嵐が来る前のような不穏な風のこと。うちはマンションなんだけど、風の強い日にリビングの窓を開けたまま、玄関の扉を開けると、家の中に強い風が吹き荒れて扉がバタバタしまったり、カーテンがばっさばっさと膨らんだり、暴れまくるので、そのよう様子を言いたかった。でもめっちゃ説明になってるし、イメージもピンとこないね。

ひとまず「窓に押し入る黒南風や」にして、上五に合う言葉を探したけど、やっぱりしっくり来るのがない。ので、元に戻してシンプルにしてみた。

黒南風や部屋の中にも小嵐

んんー。これよりは。

黒南風や家の中にも小嵐

こっちの方が自分のイメージに近いかな。でも何かもっとピンと来るのがあるはずとは思うけど、とりあえず今日はこれで。


添削⑤ 何食べる?ねこじゃらしマイク得意顔

自分で言うけどめちゃくちゃ意味不明じゃないですか、この俳句。これは、3歳の子がねこじゃらしを片手に蝉のぬけがらや、カマキリに向かって「食べ物は何が好きですか?」とインタビューして遊んでいて、それが可愛かったので俳句にしようと思った、のだけど……。ちなみに最初は「カマキリにねこじゃらしマイクインタビュー」と考えたんだけど、カマキリもねこじゃらしも季語で被るのでNG。そして色々とコネコネした結果が上の句である。誰の得意顔だかわからないし、ねこじゃらしマイクも意味不明だし、何食べる?って何のことだ。

これはもう子どものことだと書いた方がすっきりするかも。

三歳の取材マイクはねこじゃらし
三歳の取材の友はねこじゃらし

うん。まだ、最初の句よりは意味がわかる気がする。でも取材とマイクって両方いるかな……と思って取材の友にしてみたけど、意味がわからなくなっただけだった。

ただこれだと、三歳の取材マイクがねこじゃらし、だからどうした……と自分のツッコミが入ったので、もう少し動きを出してみた。

三歳児ねこじゃらし手に取材中

これならまだ「どうですか?どうですか?」と、食事中のカマキリにねこじゃらしマイクを突きつけていた子の姿に近い気がする。三歳児って言わなくても良いのかもしれないけど、三歳くらいの無邪気さと取材の真似をしたがる所を入れたかった……。

添削後の俳句が良い句かどうかはさておき、元の句よりは俳句として体を成したのではないかと思う。本当は最初から此処まで推敲してから投句すればいいんだろうけど、そうするとなかなか考え込んでしまって句を作るハードルが上がり、やらなくなってしまうと思うので、一先ずはフットワーク軽く作って、振り返ってセルフ添削するという形にする。


今月の好きな俳句

ふらここの夕べ幼き哲学者
山田牧

山田牧さんの句集「星屑珈琲店」が本当に良かったので、そのうち別にレビューを書きたいと思う。

秋蝶や不意に流るるジムノペディ
山田牧

これも上記の句集から。この句を読んだら、ゆったりと頭の中でジムノペディが流れ出した。あいつ不意に流れるよね、わかる……。

切株を抑へ込みたる西日かな
片山由美子

西日という季語が好きかもしれない。

珈琲を濃い目に淹れし晩夏かな
好摩

しみじみわかる。

冷房の部屋に消毒液があり
仁平勝

コロナの夏。

そびえたつたましひ色の雲の峰
松尾隆信

色んな雲を見た夏でした。

忘られて人は二度死ぬ花石榴
広渡敬雄

花石榴という季語にハッとした。

間違へて秋風と手をつなぎゐし
後藤比奈夫

角川俳句9月号の後藤比奈夫追悼特集から。妻を亡くした後の句ということで悲しみの深さがすごく……うおおとなった。

二匹目も妻が殺せし百足虫かな
西やすのり

これも妻の句。好き。笑

角川俳句、締切を間違えてしまって、8月号のハガキは出せなかったけど、できるだけ投稿していきたいな。

最近は句集も色々読んでるので、その感想もそのうち。

俳句、飽きるかなぁと思っていたけど、うおおおと思う句に出会うたびに、深みに嵌っていってる感じがある。楽しい。

「つけびの村」 高橋ユキ

先週末、子がまた熱を出した。3月から数えて7回目。耳鼻科で貰った鼻スプレー(アラミスト)のおかげか、直近3回は抗生物質なし・2日で解熱できるようになったはよかったが、今回は咳を伴う風邪だったので緊張した。とは言え、咳は発熱の一週間前から寝ている時だけ、痰が絡む、肺炎の症状はなく、小児科でも大丈夫と言われたのでPCR検査は受けていない。何よりハイパー濃厚接触者である我々(両親)にうつってないし。でもこれから秋冬になるに連れ、またどんどん風邪を引くだろうし、これはもしや……と疑う瞬間は更に増えてくるのだろう。すべてにおいて心配性な私には若干気が重いのであった。

 

まあそれ以前に、子が熱を出すとしょんぼりするのは今も変わらずである。心配なのもあるし、週末やろうと思っていたことが全て吹っ飛ぶというのもある。その憂鬱を吹き飛ばす為、食料品の買い物がてら駅前の本屋をちょろっと覗き、気になっていた本を買った。

 

 

「つけびの村 噂が5人を殺したのか?」高橋ユキ

 

現代の津山事件か?とも言われた2013年に起きた山口連続殺人放火事件のルポ・ノンフィクション。限界集落と言われた過疎地区で起きた”最年少”60代男性による連続殺人と放火事件。当時はネットでも、Uターンしてきた男性(犯人)への村人たちの陰湿ないじめがあったとか、その復讐だとか、色々言われていたのは覚えている。

実際に被害者、遺族の方がいる犯罪のルポを手に取る時、自分の中の野次馬心(およびミーハー心)を意識し、若干の後ろめたさを覚えたりする。だけど、やっぱり好奇心には勝てない。そして図らずも、それがこのルポの奥底に横たわる主題なのかもしれない……と感じた。

現実はフィクションとは違う。著者が淡々と重ねる取材で、淡々と詳らかにする事実の断片も、真相を綺麗に整えはしないし、驚きの展開もない。この本を最後まで読んでも本当に何が起こったのかを知ることは不可能だ。だけど人々の話の断片からは、薄ぼんやりと浮かび上がる不気味な、そして既視感のある闇が覗く。

うわさ。悪口。悪口を言われているのではないかという疑惑。疑心暗鬼。それが呼ぶ憎悪。更なるうわさ。悪口。疑念……うわさ。

コミュニティ人口が少なければ少ないほど(あるいは世界が狭ければ狭いほど)毒は早く回るし、目に見える奈落の大穴なら避けようも逃げようもあるけれど、ほとんどの場合それは普通の道に擬態したぬかるみで、足を取られたら容易には身動きが取れなくなる。

ゾッとするのは、見たことがあるからだと思う。

 

 うわさ話は我々にとって甘美な娯楽だ。
 眉をひそめながら小声で話していても、その心は躍り、どこか興奮している。
 うわさ話を重ねながら、人は秘密を共有した気になり、結束を固め、ときに優越感に浸る。私たちと同じように、郷集落の村人たちもまたうわさ話に耽っていた。事件の前も「コープの寄り合い」がなくなったあとも、そしてこれからも。
 私たちはどうか。
 村から遠く離れた地で、この事件のことをあれこれと語り、SNSで吹聴し、またそれを信じてきた私たちのことだ。
「彼は村八分にされていた」
「不穏な犯行声明を掲げていた」
 判決が確定し、事件が終結しても、折々に誰かがこんなふうに、うわさを長さ宇ことだろう。そして、また別の誰かがそれを信じ、新たなうわさを流すのだ。(P294)

 

帯にある「人々の闇と僕らの好奇心はつながっている」と言う言葉が、読み進むほど利いてくる。そうなんだよね。誰も無関係じゃない。どこかで起きた非常識な人たちの事件じゃない。誰にでも起こりうること……とはもちろん言わないけど、その好奇心は間違いなく人間の性(さが)の一部だ。

 

ものすごく面白かった。
そう。私の好奇心は、満たされた……。すみません。
(子が熱を出している夜に読んだので、少し疲れてしまったが)

 

*

 

津山事件(津山30人殺し)は、色々なフィクションのモチーフになっているが、私は山岸涼子の「負の暗示」という短編で知った。フィクションとは言え、決行に至る前の犯人の表情(無表情)がものすごく怖くて印象に残っている。今回の犯人も、あんな表情をしていたのだろうか、と妄想してしまうところもまた私の至らぬところである。

 

 

 

こちらに収載されています。表題の天人唐草もゾッとする名作。
(文庫版は収録話が違い、負の暗示は入っていないみたいなので注意)