october notes

俳句と小説と服と記録と記憶

推し、燃ゆ

今日は無理やり休みを取った。天気予報では雨が止むと言っていたのに朝から止まなくて辛い。昼を過ぎてほぼ止んだので子を自転車に乗せスーパーに行ったら、帰りにどしゃぶりになり、子はレインカバーに守られるも、私はずぶ濡れ。学生時代に雨にずぶ濡れになるもタオルで適当に拭いて着替えただけで済ませたら、マイコプラズマ肺炎にかかり1週間寝込んだことがある。それ以来、ずぶ濡れになったら最低限シャワーは浴びることにしている。もはやなにも考えずにただシャワーの中で生きる生物になりたい。

 

周りが「今保育園行かせるなんて信じられない」派と、「え?普通に行かせてるけど?そんなのいちいち気にしてたら仕事できないよ」派に分かれていて、その狭間でめちゃめちゃ辛い。「もうまったく仕事になんないし行かせられるものなら行かせたいけれど、何かあった時に後悔することは目に見えているので苦渋の末の選択として今は行かせずになんとかしているがこのままじゃ幾分ももたない」派。社会生活とはなんだろう。明日は夫が休む。

 

 オーディブル

タイトルやなんとなくのイメージで抱いていた印象の1000倍、真面目に、真正面から推しを推すことに向き合った小説だった。二次元だろうが、三次元だろうが、誰かを推したことがある人にとっては至言とも宝石ともいえるようなフレーズが詰まっていて、それを一つ一つじっくり味わいながら、見事な大玉花火が儚く夜空に散り落ちてゆくのを眺めるようなお話。目を閉じてもまだチカチカしている。

 

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。

 

現実社会にいる私の推しは女性だ(ちなみにCoccoと言います)。推しを推すための行為の一部に差異はあるものの、推しという物語を解釈し尽くしたいという欲望はとてもわかるし、それをあかりが「業」だと表現したことが、それはもうわかりすぎて泣きそうになってしまった。推しが健やかに、できれば笑っていてくれたらそれでいい。たまに歌を聞かせて貰えるのであれば、それだけで本当に幸せだ。

 

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