october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

超筋トレが最強のソリューションである/Testosterone

感染者が本当に少ないまま推移していて嬉しい。ちょっと友達と会う予定を入れてみたりしている。このまま行ってくれたら嬉しいけど、海外の状況を見ているとまだわからない。「元の世界が戻ってきた」と言っている人を見かけると何とも言えない気持ちになる。このままコロナが収まっても、元の世界には戻らないだろうと思っている。

 

Twitterとの距離を最近ずっと考えている。今メインでつぶやくアカウント(オタク、俳句、育児)を3つ持っているけれど、1つにしようか、それともアカウントは残してももうつぶやくのは止めようか、などということも考える。

 

人それぞれの何気ない呟きを、何気ない内面を、大量に(お互いに)浴び続けるということは、もしかしたらあまり良くないことなのかもしれない、と感じることが増えた。何を見てもさして影響を受けない(消耗しない)くらいに余裕がある時だけTwitterを見ればいい話なのだが、覗くことが習慣化しているので、無意識のうちに覗いてしまうだけでも、何気ないことに微々たるダメージを受けていき、また私も無自覚のうちに誰かを削っていたりするのだ。でもそれって、ものすごい、無駄じゃない?って、最近本当に思う。

 

あとは、例えばものすごく乱暴な考えだったり、差別的なことを誰かが発信した時に、それに反論する形で色んな人がそれを引用RTする。それをまたみんなRTして、色々と意見を表明する。それ自体は、全然いいのだ。RTしてわいわい言うのは私もやったりする。ちゃんとはっきり言ってくれてありがとうと思う。だけど、一方でそもそもその元の発言を目にしたくない時だってある。そしてTwitterでわいわい言ったって、そんなこと元発言者には伝わらないわけで。みたいな虚しさもあるわけで。

 

そういうことに自分の余裕や機嫌を削られていくことに何の意味があるだろう。Twitterでは議論はできないというのは、もうかなり前からずっと思っていて、なのにじゃあなんで私はダラダラ続けて、こうして無駄な時間を費やしてしまうんだろう。楽しいことだってもちろんある。むしろ、楽しいことのほうが多い。発信は楽しいし、交流も楽しいし、友達とたくさん繋がっているし、アカウントを消したら繋がってられなくなっちゃう人もいるだろう。私は場を失うだろう。

 

でもなー。でもな。

私はもっと小説が書きたいし、本が読みたいし、俳句が作りたいし、家族と時間を過ごしたいし、友達との時間を大切にしたい。ちょっとした無理解だとか、ちょっとした意見の総意だとか、ささいな愚痴だとか、エアリプだとか、不愉快なプロモーションだとか、不用意に回ってくる悲しいニュースだとか、あるいは、どこかの誰かのよく見るあのひどいこと言うアイコンの人の発言に、いちいち傷ついてる時間は無い。自分が不用意に漏らしてしまう発言で、誰かを不快にさせている場合でもない。

 

世界の嫌なことから目をそむけたいという意味じゃない。でも、それに対して反論したり考えたりするのは、Twitterという場は不適切な気がする。Twitterは極端で乱暴な意見を言いっぱなしにすることが可能なプラットフォームで、そこに真面目に反論するのは、いじわるな人の土俵に乗ることになるのかもしれない、と最近思う。あと気軽に使いすぎて自分の発言が不用意にいじわるになってたとか。きっと、あるよねって思う。そして、Twitterジャパンへの不信感も相当に強い。

 

なので、やっぱり少しずつ距離を置こうと思う。いやなら私が離れればいいだけなのだから。発信するのはブログでもできる。最近はインスタグラムのテンポの遅さも悪くないなって思ってる。アテンション・エコノミーについても、ちゃんと考えて対策を取っていきたい。

 

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筋トレをやる気になるかなと思って読んだら、まんまとやる気になったので近所のジムの体験を申し込み済ませたところです。