october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

サーチライト/西川火尖

元旦の朝は私の実家でお雑煮とおせちを食べてから、恒例行事として都内の親戚の家に行った。本来なら集う筈の従妹はコロナの影響で今年も帰国できず、弟は三人目がまだ0歳なので上京を控えたので、三家族の集いに。本当なら近い年の子供が六人いる場に、今年もうちの子が一人だけだ。本人は大人を独り占めしてブイブイ楽しんでいたからまあよかった。すきやき、寿司、蟹などのご馳走が並ぶが、若者が少なくてあまり減らない。そして子はお年玉を貰う。数年前までこちらがお年玉をあげていた従妹(妹の方)からも。命は巡るし、お年玉も巡る。

 

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実家のお雑煮は関東風で、すまし汁に鶏肉、小松菜、なると、三つ葉、焼き角餅。大阪に住んでいる弟は、毎年年末に母に電話をかけてきてお雑煮の作り方を聞くらしい(そして自分で作っている)。私は今の所毎年実家で食べているので自分でお雑煮を作ることはあまりないのだが、今後自宅でやるようになった時は関東風も作りつつ、日本津々浦々の色んなお雑煮を作ってみたいという野望がある。(パルシステムとかでそういうセット売ってないかな)

明日から夫の実家(大阪)に帰省する。去年は帰れなかったので2年ぶり。親戚とはいつも外で食事会で、家に遊びに行く時は義母がカニ鍋かお好み焼きをやってくれるので、夫の家のお雑煮は一度も食べたことがない。

 

 

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子連れ句会でお世話になっている火尖さんの第一句集を発行された。タイトルもかっこいいのだが、深い藍色の紙に銀刷りの帯だとか、見返しの紙のキラキラだとか、トレペの使い方だとか装丁も同人誌を作ってきたオタクの心をくすぐる仕様になっていて最高だった。俳句の感想をいくつか書かせていただく。

 

本当に薄羽蜉蝣なのですか

ドキッとするし、ちょっとホラー感がある。ただでさえ薄羽蜉蝣ってあまり実体を感じられないほど儚く見える存在なのに「本当に」と聞かれると、確かなものなど何もない気がしてしまう。「なのですか」という確認。何のために?この世に存在するものが共通して持つ危うさを言い当てられたような気持ち。

 

配られて使はぬ資料鳥雲に

面倒な会議でよくある光景。この資料に使った時間も紙も全部無駄になるけれど、不要である資料を読み込む労力や時間も、また無駄であるのだ。無駄に無駄を重ねて回っている仕事がこの国にはどれほどあるんだろう。途方に暮れて窓の外を見れば、鳥が雲に帰って行くところ。

 

梔子やどれもきれいなふくらはぎ

老若男女、人体の中でふくらはぎはとても綺麗な場所だな、と思った。「どれも」というのが絶妙によい。もしかしたらいやらしい視線なのかもしれないのだが、それを感じさせず「綺麗なものは綺麗なのだ」という、潔さ、清さを感じる。梔子という季語も、白っぽくてどこか色気もありつつ、品があって好きだ。

 

夕立に次ぐ夕立に次ぐ夕立

畳み掛けるような夕立。畳み掛けるような絶望にも思えるのだけど、夕立の後は必ず、必ず晴れ間が広がるから、ただただ光を切望しているようにも感じられて、その切実さがとても好きだと思った。

 

草いきれ何を喜ぶ子になるか

赤ちゃんのしっとりした温かさや、寝起きや泣いている時のほんのりした汗と、季語の草いきれ(日に当てられた夏の草から生じるむわっとした熱気)がとてもあっていて、目の前にほやほやの新生児を抱いているような感覚になる。「何を喜ぶ子になるか」は目の前の、新しい存在に対する絶対的な肯定であり、尊重を込めた祝福の言葉。「どんな子になるかな」でも「こんな子になってほしい」とも違う。優しくて、大きくて、そして最初からこの子は己とは違う、別個の人格を持った人間なんだとわかっている、ほのかな寂しさも抱えた眼差しだ。

 

蜜豆の器重なり深緑

夏の午後の、家の中の暗さを思った。外は眩いほど明るいけど、真夏の太陽の光は部屋の中まで入ってこない。しんとした古いアパート、外に蝉の声、台所の床板だけやけに冷たくて足先が冷えている。言葉は少なく、でも器の重なりに親密さを感じる。

 

花の屑浮力を使い果たしけり

火尖さんのこの句を最初にどこで見たのだか覚えていないのだけど、とにかくこの句を読んだ時に、すごいな〜〜素敵だな〜〜ってずっと思っていたので句集の中で発見して嬉しかった。ただ道に落ちた花の屑が、浮力を使い果たした勇者たちに見えてきて、壮大な物語が終わった後の切なさまで帯びてくる。エンドロールが聞こえる。春はプロローグでしかないのに。

 

夏蝶といふ遥かなる立眩み

「遥かなる」というものすごく大きいものと「立ち眩み」という自分だけのものの対比が面白い。でも己にとっての世界の感覚は全て自分だけのものだから、つまり「遥か」と感じているのも自分の中の広がりでしかないと思うと、立ち眩みが世界の崩壊のごとく大げさに感じられるのも良い。夏蝶は大きく美しく強く羽ばたき、それでも蝶はやはり蝶で儚くもある。

 

 

火尖さんの句はけっこうえっちな句が多く、ここでいうえっちは性的なことをばーんと読んでいるわけではなくほのかな関係性の匂わせに読み手(わたくし)が勝手にえっちさを読み取っているだけなのだが、その手のこと(行間から関係性を勝手に読み取り萌える)をずっと楽しんできた身としては、かなり楽しく鑑賞させてもらった。つまり行間からBLを読み取るような楽しみがあるということである(みやさとさんやてふこさんもツイッターで仰ってたことだ)。火尖さんはBL読みOKとのことだったので、今度ははっちゃけすぎない程度にBL読みの鑑賞も上げたいと思う。

 

8/500 (句の鑑賞を数えたいので記事の最後にカウントを入れていきます)