october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

川のほとりに立つ者は/寺地はるな

伯父が亡くなった。知らなかったが闘病していたとのこと。明日車で2時間半かけてお通夜に行く。子供の頃はお正月には伯父の家に行って食事をしていたのだけど、社会人になってからはほぼ行っていない。最後に会ったのは八年前の祖母の葬儀の時だったと思う。

伯父はその経歴を見るとかなり優秀な人で、だけど身内に対してとっても厳格な人だった。たぶん、ちょっと嫌なやつだった。子供の頃は不出来な弟(=私の父)をとても馬鹿にして意地悪して厳しく当たり、結婚して家庭を持ってからは父親として子供(=従姉たち)を本当に厳格に育て、なので父とはそれなりに拗れていたし、従姉たちも昔は色々と大変だったみたいだ。

私はそういう話を聞いてはいたものの、伯父と直接言葉を交わした記憶はほとんどない。お正月の挨拶だとか、子供の頃お年玉をもらってお礼を言うとか、それくらい。弟には色々と声をかけていたが、多分私には興味がなかったのだろうと思う(ラッキー、と思っていた)無口な人ではなかったが、基本的には全ての話題が自分の仕事の話になるタイプの人で、あとは若者文化にわかりやすく眉を顰めたり、理解できないものを決して理解しようとしなかったり、わかりやすく頭の固い昭和男だったので、苦手だったし、伯父さんが私の父じゃなくて良かったなー、ってずっと思っていた。

と、亡くなった人のことを思い出して書いていたら、悪口みたいになってしまったけれど、それが本題じゃなくて、自分の中にある伯父の像は、基本的には伝聞と、あとは年に1回だけ顔を合わせた時の印象の断片でしかないんだな、と言うことを、改めて思って不思議な気持ちになった、ということ。

父はお兄さんのことが苦手だった割には、年に1回、2回くらい一緒にゴルフするのはそれなりに楽しみにしていたっぽかったし、今回も亡くなる前に会いに行けて良かったと言っていた。従姉も大人になってからは実家との関係は悪くなかったと聞いている。私は、結局伯父さんのことは何もよくわからないままで、今回の訃報を聞いて、どちらかと言うと父の心配をしている。

物心つく前から自分のことを知っている大人というのはそう多くなく、血もつながっている相手だけど、わからないまま亡くなってしまった。そういうことってあるんだな。いや、そう言うことの方が多いのかもしれないな。誰のこともよくわからないし、わからないことはわからないまま、抱えていくので良いのだなと言うこと。

伯父さんが今頃祖母とのんびりしていたらいいなと思う。明日は、久しぶりに従姉妹たちに会えるのが楽しみです。

 

カフェの若き店長・原田清瀬は、ある日、恋人の松木が怪我をして意識が戻らないと病院から連絡を受ける。松木の部屋を訪れた清瀬は、彼が隠していたノートを見つけたことで、恋人が自分に隠していた秘密を少しずつ知ることに――。「当たり前」に埋もれた声を丁寧に紡ぎ、他者と交わる痛みとその先の希望を描いた物語。

登場人物がみんなどこか欠けていて、その欠落を互いに見つめている。いや、本当は誰も欠けているわけじゃなくて「完全な人間」という幻想がこの社会全体をふわっと覆っているからそう見えるだけの話なのかもしれない。相手を想う心はあるのに、すれ違い、こぼれ落ち、隙間が空き、傷つけ、間に合わない。だけどもう一度手を伸ばす。修復を試みる。許す。許されようとする。拒絶される。傲慢になる。上から目線になる。拒絶する。コロナ禍で開いた物理的な距離感の隙間を縫うように、丁寧に人と人を描いた物語。大きな事件が起こるわけでもないのに、淡々と染みてくる、答えは出ないけれど、それでも前に進む人生たち。極悪人はいないし、完璧な人間もいない。そこにリアリティがあって良かった。

このエントリーの前半で書いていた伯父さんのこともにも繋がるんだけど「(自分が)他人を容易くジャッジしない」それが一番、難しいんだよね。結局、誰の心も一番奥底はわからないけれど、決めつけないで、邪推しないで、勝手に悪意を見出したりもしないで、もやもやしても、辛くても、わからないものは、わからないまま抱えていく。松木のお母さんの気持ちだって、わからないよねと想う。