october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

「急に具合が悪くなる」 宮野真生子、磯野真穂

9月に入った途端に太陽の力が弱まり、最近はめっきりと涼しくなった。連休最後の火曜日は空も風も澄みわたる素晴らしい秋晴れで、この気候があと三ヶ月続いてくれたらいいのにと思わずにはいられない。でも台風12号が来ていて、今日からは雨。気圧の頭痛はこの際耐えますから、どうか進路が逸れますように。

 

 

 

夏の盛りに、何となくネットサーフィンをしていたら見つけた書評ブログを読んで気になり、本屋で平積みになっていたのを手に取った。

哲学者の宮野真生子さんは再発乳がんの肝臓への転移が発覚し、主治医から急に具合が悪くなる可能性があることを告げられた。

 

 主治医に「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われたのは2018年の秋でした。
(中略)
「具合が悪くなってから、どのくらいもつものなのでしょうか」
「これはあくまでひどい場合ですよ……ただやっぱり肝臓ですからね、悪くなる時は一気なんです……。たとえば急な方ですと三週間で亡くなられた方もいます」
「え、三週間? 三カ月じゃなくて?」
 さすがに声をあげたことを覚えています。
(P25 1便 急に具合が悪くなる)

 

そして、宮野さんが参加予定だった仕事のイベントについて「急に具合が悪くなり迷惑をかける可能性があるから、開催をやめたほうがいいのか?」と、医療人類学者の磯野真穂さんに投げかける。そこから始まる、10通ずつの往復書簡だ。

10回にわたる手紙のやり取りの中で、二人は確率について、病について、可能性について、不運と不幸について、死について、患者であることや患者を取り巻く人たちについて、出会うことについて、関係を築いていくことについて、生きることについて、真摯に、丁寧に、鮮やかな言葉を重ねていく。宮野さんが後半、本当に具合が悪くなり死に向かう最中でも、力強い、まっすぐな言葉の真剣勝負が続く。

 

 けれど、私たちはそんな唯々諾々と不運を受け入れて「腑に落とす」必要なんてあるのでしょうか。私はないと思います。わかんない、理不尽だと怒れば良い。そんなものは受け入れたくないともがけばいい。
 ところが、目の前に合理的に見える説明形式や、わかりやすい物語が提示されたとき、人はそれを受け入れるべきだという社会的な通念は現代社会にも強く存在していると思います。なにより、その方が合理的で楽でしょう。結果的にそれが自分を余計辛くするとしてもです。なぜなら、わからないものと対峙するのはしんどいし、怒り続けることも難しい。だから、私たちは「わかるとされていること」にすがり、流されてゆく。
 でも、わかる必要などないのです。
(P120 5便 不運と妖術)

 

だんだんと宮野さんと磯野さんの心が近付いていく過程や、それについて二人が様々な言葉で意味を結んでいこうとするところ、だからこそ苦しい部分も切ない部分も全部ひっくるめて、心が震える。

手紙というプライヴェートな形態で始まったものが、幾つかの出会いにより本の形になり、出版され、うちの最寄りの本屋でも平積みされ、手元に届いたというその全部をひっくるめた幸運。一歩を進むための力強い光となるような、この先、生きていく中で、色んな場面でお守りになるような、あるいは道しるべになるような、そんな言葉たちだ。

 

 関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いに取って心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。
 これこそが関係性そのものであり、そして、そんな何本ものラインが動きを止めず、世界を通り抜けるラインを次へ次へと伸ばしながら時に交差し、場所となり、でも動きは止めずに先に進んでゆく。それが多様性なのではないでしょうか。
(P189 9便 世界を抜けてラインを描け!)

 

できれば、この記事を読んでいる貴方も読んでみて欲しい。
そして、同じ光を受け取って欲しいと願ってしまう。

傷つくのを恐れて立ち止まって、ただ何かの幸運が訪れるのを待っているのではなくて、勇気を持ってボールを投げて軌跡を描き、関係を持つこと、続けていくこと、築いていくこと、その中で描かれるラインの美しさと、そこまでたどり着いて初めて見える世界の美しさについて。自分が生涯で描けるラインの数や、受け止めることが出来るボール、見ることが出来るかもしれない風景、見たい風景、について。考えて、またボールを投げる。受け止める。いつか貴方とも、美しいラインを描けたら良いなと、願いを込めて。

もう全然言葉にならなくて、この記事を書くのに時間が掛かった。
むしろ何も考えずに呟いただけのツイートは、けっこう見てもらえたし、読みましたとも言って貰えた。そういうこともあるよね。

記事を書いてもまだ感じたことの半分も言葉にできていないし、多分全部は消化しきれていないので、何度でも読み返したい。