october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

「地獄の楽しみ方」京極夏彦

今年の梅雨は長い気がする。その上、梅雨間の晴れがほとんど無く、少しでも気を抜くとすぐに鬱々とした気持ちになってしまう。ベランダの植物の成長、ホームベーカリーで焼いたパン、句作、読書、それと買いだめのハーゲンダッツが、日々の潤いの糧だ。

7月に入ってから東京のコロナ感染者数はどんどんと増えていく一方で、4月のような自粛ムードにもならず、些細な判断が全部個人に覆いかぶさってきて中々に苦しい。このまま保育園は行かせていていいのか、不要不急ではない皮膚科の定期通院に行っても大丈夫か、都内の親戚の家に行くのは?、本人がとても気に入っている習い事は今後どうしよう、などなど。とは言え、出勤しないで(テレワークで)済んでいることや、今のところは職を失う心配はないことなど、恵まれている部分も大きいし、豪雨の被害に合っている地域のことを思うと愚痴を言っている場合じゃない。粛々と耐える部分は耐え、できることはやっていくしかない。ささやかだけど、被災地には飲み会1回分の寄付をした。GOTOキャンペーンが本当に始まるなら、遠出の旅行にはとても行けないけれど、せめて隣町のホテルに泊まって経済を回す所だけ貢献したい。こんな機会が無いと、都民は都内のホテルに泊まったりしないしね。

 

さて、京極夏彦を読んだ。

 

 

 

「今の十代の皆さんは、私が十代だった頃に比べても、はるかに優秀です。
しかし、大人になった皆さんを待ち受けているのは地獄のような現実です。それはいつの時代も変わりありません。
地獄を楽しむためのヒントを、もう地獄に堕ちている先輩が、少しだけお教えします」(京極夏彦

「あなたの世界」は、言葉ひとつで変わってしまいます。
SNS炎上、対人トラブル――すべては「言葉」の行き違い。
語彙を増やして使いこなすわざを身につければ、楽しい人生を送ることができます。

地獄のようなこの世を生き抜くための「言葉」徹底講座。
大人前夜のきみたちへ。学校では教えてくれない本物の知恵を伝える白熱授業。
「17歳の特別教室」シリーズ第5弾。
Amazonより)

京極先生の言うことはいつも大体身も蓋も無いのだが、私はそれが大好きなので読んでいて気持ちが良い。講演会をベースにしているからか、いつも以上に表現が平易で読みやすく、あっという間に読み終わってしまった。妖怪もお化けも出てこない、おやつのような京極夏彦。ただカロリーは高めだし内容はリッチ。何も考えないでコンビニでおやつを買ったら、それがマスカルポーネ・クリームのあまおうのフルーツサンドだった、みたいな感じ。わはは。何を言っているのだかわからないと思うが、この本の感想について言葉で表現することの限界および無謀さの前に、ただ膝を抱えてコロコロしたい気分になっているだけというのもある。

大きな問題を前にすると、いつだって自分が弱く頼りなく、言葉が足りないような気持ちになってしまう。SNSなんかでもそうだし、実際に対面していたって、あーでもこれ言っても多分伝わらないしもういっか、と口を噤んでしまいたくなることが多い。それが日々の生活や目の前の課題に直結しないなら、なおさらだ。議論は大事だと思うし必要なことは言うが、言い争いは嫌いだしこちらの言葉が曲解されることに対してとても警戒してしまう。

でも夏彦先生は「そもそも言葉というのは正しく伝わらないものなのだ、という前提でいなさい」と、指一つ直接は触れずに、肩の力がすとんと抜けることを言う。これは、あれだな。憑き物落としだ。私は知ってるぞ。そして語彙は多ければ多いほど良いと。語彙が足りないことも、そう言うものだと開き直る前に、それを手に入れる努力も必要だよな、と先日読んだ別のnoteのことも思い出しながら考えた。その、語彙の手に入れ方も教えてくれる。17歳相手だから……ではなく、夏彦先生はそもそも優しい人なのだ。(優しくあることと、時々意地悪なことは両立する)

言霊は、心以外には効きませんが――心にだけは効くんですよ。

これだよ、これ。京極夏彦京極夏彦イズム。「この僕が言うのです」(@魍魎の匣)と、思いました。

そしてタイトルでもある地獄の歩き方。その一つに、『嫌いなことをしないために頭を使おう』ということ。

 嫌いなことをやらずに済むように、頭を使うしかないですね。
 嫌いだからやらない。それはダメなんです。嫌いでもやらなければいけないことはいっぱいあるんですから。好きなことだけやろうとすると、そこをはき違えることになる。でも、頭を使って工夫をすれば、嫌いなことをやらずに済ませられるかもしれない。もちろん合法的にね。(笑)。
(中略)
 嫌いなことをしなくて済むように「悪だくみをする」。「抜け道を考える」でもいいです。あの手この手を使って、できるだけ嫌なことはしないで済むようにする。
 それって、諾々と嫌なことをやっているよりはるかに疲れます。難しいです。
 ものによっては何度がかなり高くなります。でも、ストレスは少ないです。悪巧みを考えるのは楽しいですからね。嫌なことをしないためにどんなミッションを自分に課すか、それがクリアできるか。これが楽しめるなら当面困りませんね。世の中には、嫌なことでいっぱいの地獄ですから。これも地獄の楽しみ方の一つです。

十代〜大学生の頃に思い描いていた理想の人生を今歩んでいるかというと、もちろんそんなことはない。ただ私は仕事にしても結婚にしても人生にしても「これだけは嫌だ!!」ということは、当時から幾つかあった。一つ一つ細かくあげだすとキリが無くなるのでやめるが、例えば価値観が古く抑圧的な職場では働きたくないとか、こちらを女だからと見下してくる人とは絶対結婚したくないとか、誰かと結婚しても一生働くつもりでいるが働きながら家事育児全て背負うのは嫌だな、とかそういうことだ。

とりあえず仕事にしろ恋愛にしろその絶対に嫌なこと……嫌な環境や人間関係を、避けて避けて逃げて逃げて避けて避けてきた。もちろん途中の困難がゼロだったわけではないし、それこそ最初に就職した会社はめちゃめちゃしんどかったし、恋愛・恋愛以前で、あるいは人間関係で嫌なことを言われたり、辛い想いをしたことも(恐らくさせたことも)色々とあるが……それらを経て、アラフォー子持ち会社員となった現在は、幸い嫌いなことがほとんど無い気楽な毎日をすごすことができている。(もちろん少しはある、そりゃあ社会に生きてりゃゼロにはできない)

だからこの本で夏彦先生の言うことには本当に全力で同意をするし、できればすべての17歳に読んで欲しいなぁと思う。「嫌なこと」を「戦略的に」回避するのは何歳からでもできるけど、若い方が軌道修正しやすいのは確かなので。

「琥珀のまたたき」小川洋子

今日はひさびさに一人時間があったので、pixivに少し昔の小説の再録をして、それから少しだけ文章を書き、そして読みかけだった琥珀のまたたきを読んだ。夜には桃とさくらんぼを食べた。

 

 

 

 

壁に閉ざされた別荘、
家族の奇妙な幸福は永遠に続くはずだった。

私の内側の奇跡の記憶を揺さぶる、特別な魔法の物語。
――村田沙耶香

最後の数ページの美しさには、息をのむほかない。
――宮下奈都

魔犬の呪いから逃れるため、パパが遺した別荘で暮らし始めたオパール琥珀、瑪瑙の三きょうだい。沢山の図鑑やお話、音楽に彩られた日々は、琥珀の瞳の奥に現れる死んだ末妹も交え、幸福に過ぎていく。ところが、ママの禁止事項がこっそり破られるたび、家族だけの隔絶された暮らしは綻びをみせはじめる。(Amazonより)

とりとめの無いささやかなエピソードが読み手の心のの奥に小さな染みを作り、それが普通の日常の隙間にじんわり効いてくる。「琥珀のまたたき」はそういう類いの小説なのだと思う。

末の妹の死、それをもたらした「魔犬」から逃げてきたママと三きょうだい。名前を捨てられ、誕生日を捨てられ、友達を捨てさせられて、まるで完璧な箱庭を手作りするように、ママとオパール琥珀、瑪瑙の四人でお屋敷の中で息を潜める暮らしが綴られている。

大きな大きな悲しみがあって、だけどそれには直接触れずにその周辺を彩っていく。埋めようがない深い穴をバターたっぷりの生地で何層にも隠して焼き上げたパイは、どこか懐かしく、甘くて繊細で、少しだけ土の味がする。琥珀の目の端に写る残影は、あまりに優しくて、図鑑の隅っこに結晶となる思慕が、ただただ美しくて切ない。どうしたって子どもは育っていく。そんな当然なことが、ママにとっては残酷な現実となってしまったことが悲しい。息が詰まるような幸福な時間を、永久に留めることはできないのにね。

物語は現在と「当時」を何度も行き来する。それが私(読者)にとっては救いだった。既に終わった物語を聞いているのだと、思っていないと、どんなに美しくて幸福な日々も、引き裂かれた悲劇の余韻でしか受け止められなくなるから。今もちょっと悲しさを引きずってる。

「死にたいけどトッポッキは食べたい」ペク・セヒ(韓国)

私は特に、というか絶対、当面の間は死にたくはないが、トッポッキは好きである。小さい頃からおもちが大好きなのでトックからトッポッキやら好きにならないわけがない。ただ昔韓国に行った時、市場で食べたトッポッキは美味しかったけど、とてつもなく辛かった。

 

 この本を知ったのは確か料理家のなかしましほさんのツイッターから。なかしましほさんはトッポッキのレシピを紹介している。

韓国で200冊限定のブックファンドから、40万部を超えるベストセラーになったというのだからものすごい。ブックファンドの仕組がよくわからず調べてみたが、はてなブログのタグには以下のように書いてあった。なるほど。

出版にかかる費用の出資を募り、その本が売れた場合に配当金を出して投資回収を促すファンドのこと。英治出版などが実践している。

目標額に達するまで出版決定しないという手法をとることができて自由度があり、また、著者が出資を行うことで印税に加えて配当金を上乗せして得ることを狙うなどのやりかたもできるため、新たな出版手法として注目されている。
ブックファンドとは 読書の人気・最新記事を集めました - はてな「ブックファンド」とは - 出版にかかる費用の出資を募り、その本が売れた場合に配当金を出して投資回収を促すファンドのこと。d.hatena.ne.jp 


余談はさておき。この本は著者ペク・セヒの「気分変調症」という、ゆるやかな鬱のような、気分障害のような、対人恐怖症のような、強迫観念のような、平穏と不安定の境界線をいったりきたりする、そんな状態と、精神科医とのセラピーでのやりとりがメインで進む、対談でありエッセイである。著者(主人公)は、本人曰く、とても自己肯定感が低く、依存傾向が強く、すぐに人のことを決め付け白黒付けたがるし、友人となる人のことや、恋人のことも、家族のことも愛したり突き放したりで忙しい。有名大学を卒業していて、出版社で華やかな仕事をしていて、多分そう言った外側から見たらとても華やかに見えるし、頭はとても良いのだと思うのだけど、とにかく自分のことに自信がなく、とことん卑屈になったり、かと思えば上手くやっていたり、あるいは冷静に俯瞰的に見つめたり……を繰り返している。そして、その生々しい悩みや葛藤が、淡々とした言葉で綴られている。対峙するドクターはとても冷静で、寛容で、優しくて、その言葉を追っているとこちらもセラピーを受けている気持ちになる。恐らく、主人公と同じような悩みを抱えている人にとっては、何かしら響くものがあるのだと思う。

ただ正直なところ私は彼女、主人公の悩みにはほとんど共感することができず、どちらかというと読んでいて苦しい気持ちになった。もしかしたら少し憤ったかもしれなかった。敏感すぎる人と言うのは、ときどき、他人の感情にはビックリするほど鈍感だなぁ、などと思ってしまう場面もあった。もちろんこのやり取りが、葛藤の通り道をなぞることが、医師の言葉が、どこにも行かない終わり方が、救いになる人はいるんだろうとは思うし、それは絶対に否定はしない。だけど私は、これまでの人生にも少なからず居た、彼女のような態度を取ってきた人たちのことを思い出して、少しだけもんやりとした気持ちにもなった。どちらにしても若い頃の話だから、ああ、そう。若いな、苦しそうだな、でもなんだかんだで、淡々と進んでいくもんだよな、と思いつつ、ああ、この本はnot for meだったかな……とも、感じた。

が。
この本の最後に40ページ弱ほど付いている黄色いページ「付録散文集:憂鬱さの純粋な機能」とタイトルが付けられた、本当にささやかなコラムともエッセイとも付かない散文集。これは、めちゃめちゃ良かった。文章、文体が好みであることはもちろん、内容もすごい良かった。ビックリした。

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 生きることがただ生存することになってしまった時、生存と言うことの比重が増してしまい、その他のことには一切の声をあげられなくなってしまった時、その状態のまま恐ろしい勢いで時間が過ぎ、多くのことが干からび、腐っていってしまうような時、そんな状況のなかにあっても変わらずにいてくれと望むのは、自分勝手な願いであり矛盾ではないだろうか。(中略)

 感情移入は自然にできるものだと考え、自分を動かさない多くのものに対しては、心を閉ざして生きてきた。しかし、私の中になかったものを作り出して連帯する瞬間こそが、大人になる一つの道であるはずだ。私たちは多くの人たちと遠くて近い。そしてそれが家族であるほど近くて遥かに遠く、遠くの彼方にいても瞬時に横に座らせることができるほど近い。
 理解できず、だから移入もできない感情を、学んで想像すること。それは他人に対しての愛情であり、私の中の種と相手の中の種が干からびてしまわないための唯一の脱出口である。完璧に理解はできなくても、それでも握ったロープを離すまいとする心。
 このことを知るのと知らずにいるのとでは、天地ほど差があると思っている。

P185 「私の叔母」
 結局、自分が羨ましいと思う人々に一足飛びに近づくことはできない。そうなれはしない。自分が洗練されていく道はただ一つ、今の自分自身から、少しずつ、のろのろと、進んでいくだけだ。判断を急がず、感じるままに無理強いはせず、自らが下した判断と感情を受け容れること。自分を責めたところで、たちまち賢くなれるわけでもないのだから。

 おそらく人生は、受け容れることを学ぶ過程なんだと思う。受け入れたり、放棄したりするということは、人生の特定の時期だけに必要なことではなく、生きている限りずっと取り組むべき課題ではないかと思う。ありのままの、つまらない自分を受け容れることで、ありのままの、それでも努力しようとする、つまらない相手も受け容れることができる。

170P 「人生の課題」

甘えをそぎ落とし研ぎ澄まされた思考で紡がれた繊細な言葉たちが、強靭な輝きを放っていた。特に祖母や叔母について重ねられている文章は、子どもと少女と大人をいったりきたりしながら、愛されるものから愛するものへと眼差しが変貌していくのが美しくて優しくて切なかった。とても好きだった。この40ページのためにこの本を買ってよかったと心から思ったし、私はもっとこっちが読みたいなぁと思う。この散文集のパートだけの2作目が出たら間違いなく買うかも。そう。どことなく、大昔読んだ岡崎京子の散文集を思い出した。

 

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韓国の思い出。十年以上前に母と二人で行った韓国はとても紅葉が綺麗だった。ソウルの町並みは東京にも似ているけれどやっぱりどこかとても違って、余計な湿度の無さに地続きの「大陸」の存在を感じたりもした。11月の連休に行ったからか、本当に天候が穏やかで、美しい秋の思い出として記憶に残っている。ごはんもとても美味しくて人も優しくて、こんなに近いんだからまたすぐ行こうと思いつつ、何だかんだでソウルはそれっきりになっている。2回目の韓国は、それから数年後の1月に「冬で寒いから済州島に行こう~韓国のハワイだよ~」って、誘われて飛んだ時。でも1月の気温は東京と同じで全然ハワイじゃなかった。とは言え、チャングムファンとしては済州島は押えておきたいよね!

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南大門で食べためちゃめちゃ辛かったトッポッキ(奥)

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これはなかしましほさんのレシピで先日作ったトッポッキ

水無月の俳句

俳句の波がやってきた。に書いたように、俳句SNS俳句てふてふ】に投句をはじめて、10日が経った。今のところ何とか1日1句以上は詠めている。いいねの数で段位があがるシステムで、今現在トータル204いいねで6級になったばかりのところ。6月の投句数は17句で平均いいねは12。6月は10日分しかなかったので上位5句をまとめてみた。同点のものがあった場合は、新しいものを上にする。なお、週間ランキングで上位の句は40前後のいいねが付く。まだまだだけど、初心者なので今は詠むのが楽しければそれでよし。

茗荷盛る悩み多き夜冷奴

18いいね。これ昨日の夜の句なんだけど一晩でわりといいねが付いて1位になりました。季語は「冷奴」。
最初は「ネギ刻む悩み無き夜冷奴」で、呑気に冷奴を食べる夜の句だったんだけど、ネギが冬の季語だったので季語被りでNG。その後茗荷を盛りながら「悩み無いというか、むしろ今細かい悩みが山ほどあるのでは……?」と思っていた矢先に子のお熱が出たので「悩み多き夜」に変えました。

梅雨晴やまだ恋知らぬ青檸檬

これも18いいね。切れ字使ってみたくて「梅雨晴や」にしたけど、投句した後で多分「梅雨晴に」の方が自分の思い描いた情景に近いのでは?と思った。ベランダの青い檸檬がまだ酸いも甘いも知らないくらい小さくて可愛いので。季語は「梅雨晴」。

沖縄忌柔らかき日々は遠くとも

17いいね。6月23日に、他の人が沖縄忌でたくさん詠んでいるので、自分も想いを馳せてみた。私が慰霊の日について思うときに真っ先に思い出すのは、昔見たプロダクション・エイシアの「ひめゆり」という長編ドキュメンタリー映画で、そこから、まだ少女だったおばあたちの柔らかき日々を思い出して詠んだ。季語は「沖縄忌」(6月23日沖縄慰霊の日のこと)。

ミント食み尺取り虫も熱逃す

15いいね。ベランダのミントに尺取り虫がついていてかなり齧られていたので。「涼を取る」とかにしたかったけど季語被りになるので、ウンウン頭を捻って「熱逃す」になりました。季語は「尺取り虫」。

梅雨雲の狭間にちょこりポーチュラカ

14いいね。ベランダで日差しが出た日にちょこっと咲いたポーチュラカ(ヘッダーの写真)が可愛かったのでそのまま詠んだ。季語は「梅雨」。ポーチュラカと松葉牡丹は近いけど、季語はどこまでカバーするのだ……?と謎に思いつつ、とりあえず季語ではない扱いにしてみた。(松葉牡丹は夏の季語)ちなみにうちのポーチュラカは「京ちゅらか」シリーズのイルミネーションという色です。

以上です。お粗末様でございました。


10日間毎日詠んでみて思ったのは、季語の縛りをどうするかで頭を使うなってことと、本情のイメージが付いていない季語が多くあるので勉強しなきゃなってことでした。(季語にはその季語まんまの意味だけじゃなくて、その概念が包括する場面や雰囲気やイメージがあってそれを季語の本情という)。あと結構、中7が8になってしまいがち。(沖縄忌の句とか)

俳句は推敲の芸術だとも言うそうだが、ぱっと思い浮かんでこれで良いかと思ったものと、良いかと思っても一度立ち止まってやっぱり考え直して色んなパターンを試してみた、言い方を変えてみたものだと、やっぱり出来上がり(といいねの数)は違う気がする。本当は添削とか受けてみたいけど今は中々難しいだろうから、しばらくは黙々と句を作るのを頑張ります。句会行ってみたいなぁ。


最近、読んだ句の中で好きだったものを幾つか。

一瞬にしてみな遺品雲の峰
櫂未知子

お母様が亡くなられた時の句とのことですが、うわっとなりました。すごい。

水やりは女王蟻に届くまで
小林鮎美

もうめっちゃ好きすぎるってなりましたね……。

春光をゆく暗闇をゆくごとく
月野ぽぽな

キラキラした光りと、自分の中にある暗闇の対比が好き。

箸といふしづかなるもの空豆
長谷川櫂

そっと空豆の箸を伸ばす感じが素敵。日常の中にあるそっと厳かになる場面みたいな。空豆なのに。

SFのやう向日葵のこんなにも
小泉瀬衣子

「SFのような向日葵畑」が一瞬で瞼の裏にぶわっと広がって、想像するの楽しすぎた。

卒塔婆は噴水でよしわが忌日
渡辺誠一郎

めっちゃ笑いました。おちゃめ!!

性格が紺の浴衣に収まらぬ
櫂未知子

これも笑ったし最高に好き。かっこいい。

虹消えて了(しま)へば還る人妻に
三橋鷹女

はっと、夢から覚める感じが好き。

虹が出るあゝ鼻先に軍艦
秋元不死男

これは字足らずの例で出てきた句なんだけど、余韻のゾッとする重さ、不気味さと、虹の対比がすごい……と印象に残った。

コメントがすべて小並感あってすみません。
上の句の八割の出展は「角川 俳句 7月号」より。俳句雑誌、色んな人の俳句たくさん読めて楽しい!

好きな俳人メモ:
三橋鷹女、櫂未知子長谷川櫂