october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

「死にたいけどトッポッキは食べたい」ペク・セヒ(韓国)

私は特に、というか絶対、当面の間は死にたくはないが、トッポッキは好きである。小さい頃からおもちが大好きなのでトックからトッポッキやら好きにならないわけがない。ただ昔韓国に行った時、市場で食べたトッポッキは美味しかったけど、とてつもなく辛かった。

 

 この本を知ったのは確か料理家のなかしましほさんのツイッターから。なかしましほさんはトッポッキのレシピを紹介している。

韓国で200冊限定のブックファンドから、40万部を超えるベストセラーになったというのだからものすごい。ブックファンドの仕組がよくわからず調べてみたが、はてなブログのタグには以下のように書いてあった。なるほど。

出版にかかる費用の出資を募り、その本が売れた場合に配当金を出して投資回収を促すファンドのこと。英治出版などが実践している。

目標額に達するまで出版決定しないという手法をとることができて自由度があり、また、著者が出資を行うことで印税に加えて配当金を上乗せして得ることを狙うなどのやりかたもできるため、新たな出版手法として注目されている。
ブックファンドとは 読書の人気・最新記事を集めました - はてな「ブックファンド」とは - 出版にかかる費用の出資を募り、その本が売れた場合に配当金を出して投資回収を促すファンドのこと。d.hatena.ne.jp 


余談はさておき。この本は著者ペク・セヒの「気分変調症」という、ゆるやかな鬱のような、気分障害のような、対人恐怖症のような、強迫観念のような、平穏と不安定の境界線をいったりきたりする、そんな状態と、精神科医とのセラピーでのやりとりがメインで進む、対談でありエッセイである。著者(主人公)は、本人曰く、とても自己肯定感が低く、依存傾向が強く、すぐに人のことを決め付け白黒付けたがるし、友人となる人のことや、恋人のことも、家族のことも愛したり突き放したりで忙しい。有名大学を卒業していて、出版社で華やかな仕事をしていて、多分そう言った外側から見たらとても華やかに見えるし、頭はとても良いのだと思うのだけど、とにかく自分のことに自信がなく、とことん卑屈になったり、かと思えば上手くやっていたり、あるいは冷静に俯瞰的に見つめたり……を繰り返している。そして、その生々しい悩みや葛藤が、淡々とした言葉で綴られている。対峙するドクターはとても冷静で、寛容で、優しくて、その言葉を追っているとこちらもセラピーを受けている気持ちになる。恐らく、主人公と同じような悩みを抱えている人にとっては、何かしら響くものがあるのだと思う。

ただ正直なところ私は彼女、主人公の悩みにはほとんど共感することができず、どちらかというと読んでいて苦しい気持ちになった。もしかしたら少し憤ったかもしれなかった。敏感すぎる人と言うのは、ときどき、他人の感情にはビックリするほど鈍感だなぁ、などと思ってしまう場面もあった。もちろんこのやり取りが、葛藤の通り道をなぞることが、医師の言葉が、どこにも行かない終わり方が、救いになる人はいるんだろうとは思うし、それは絶対に否定はしない。だけど私は、これまでの人生にも少なからず居た、彼女のような態度を取ってきた人たちのことを思い出して、少しだけもんやりとした気持ちにもなった。どちらにしても若い頃の話だから、ああ、そう。若いな、苦しそうだな、でもなんだかんだで、淡々と進んでいくもんだよな、と思いつつ、ああ、この本はnot for meだったかな……とも、感じた。

が。
この本の最後に40ページ弱ほど付いている黄色いページ「付録散文集:憂鬱さの純粋な機能」とタイトルが付けられた、本当にささやかなコラムともエッセイとも付かない散文集。これは、めちゃめちゃ良かった。文章、文体が好みであることはもちろん、内容もすごい良かった。ビックリした。

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 生きることがただ生存することになってしまった時、生存と言うことの比重が増してしまい、その他のことには一切の声をあげられなくなってしまった時、その状態のまま恐ろしい勢いで時間が過ぎ、多くのことが干からび、腐っていってしまうような時、そんな状況のなかにあっても変わらずにいてくれと望むのは、自分勝手な願いであり矛盾ではないだろうか。(中略)

 感情移入は自然にできるものだと考え、自分を動かさない多くのものに対しては、心を閉ざして生きてきた。しかし、私の中になかったものを作り出して連帯する瞬間こそが、大人になる一つの道であるはずだ。私たちは多くの人たちと遠くて近い。そしてそれが家族であるほど近くて遥かに遠く、遠くの彼方にいても瞬時に横に座らせることができるほど近い。
 理解できず、だから移入もできない感情を、学んで想像すること。それは他人に対しての愛情であり、私の中の種と相手の中の種が干からびてしまわないための唯一の脱出口である。完璧に理解はできなくても、それでも握ったロープを離すまいとする心。
 このことを知るのと知らずにいるのとでは、天地ほど差があると思っている。

P185 「私の叔母」
 結局、自分が羨ましいと思う人々に一足飛びに近づくことはできない。そうなれはしない。自分が洗練されていく道はただ一つ、今の自分自身から、少しずつ、のろのろと、進んでいくだけだ。判断を急がず、感じるままに無理強いはせず、自らが下した判断と感情を受け容れること。自分を責めたところで、たちまち賢くなれるわけでもないのだから。

 おそらく人生は、受け容れることを学ぶ過程なんだと思う。受け入れたり、放棄したりするということは、人生の特定の時期だけに必要なことではなく、生きている限りずっと取り組むべき課題ではないかと思う。ありのままの、つまらない自分を受け容れることで、ありのままの、それでも努力しようとする、つまらない相手も受け容れることができる。

170P 「人生の課題」

甘えをそぎ落とし研ぎ澄まされた思考で紡がれた繊細な言葉たちが、強靭な輝きを放っていた。特に祖母や叔母について重ねられている文章は、子どもと少女と大人をいったりきたりしながら、愛されるものから愛するものへと眼差しが変貌していくのが美しくて優しくて切なかった。とても好きだった。この40ページのためにこの本を買ってよかったと心から思ったし、私はもっとこっちが読みたいなぁと思う。この散文集のパートだけの2作目が出たら間違いなく買うかも。そう。どことなく、大昔読んだ岡崎京子の散文集を思い出した。

 

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韓国の思い出。十年以上前に母と二人で行った韓国はとても紅葉が綺麗だった。ソウルの町並みは東京にも似ているけれどやっぱりどこかとても違って、余計な湿度の無さに地続きの「大陸」の存在を感じたりもした。11月の連休に行ったからか、本当に天候が穏やかで、美しい秋の思い出として記憶に残っている。ごはんもとても美味しくて人も優しくて、こんなに近いんだからまたすぐ行こうと思いつつ、何だかんだでソウルはそれっきりになっている。2回目の韓国は、それから数年後の1月に「冬で寒いから済州島に行こう~韓国のハワイだよ~」って、誘われて飛んだ時。でも1月の気温は東京と同じで全然ハワイじゃなかった。とは言え、チャングムファンとしては済州島は押えておきたいよね!

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南大門で食べためちゃめちゃ辛かったトッポッキ(奥)

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これはなかしましほさんのレシピで先日作ったトッポッキ