october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

中学受験の失敗学/瀬川松子

風が強すぎて自転車で走ってても倒れそうになるし、ペットボトルは大量に転がってくるし、おばあちゃんはよろめいてるしでなかなか大変な町中。この前勇気を持って飛び込んだらとっても美味しかった、ローカルな感じのする台湾料理の店に12時ぴったりに入ったら他にお客さんいなくて、買い物から帰ったばかりのおかみさんが「も〜、笑っちゃうくらいの風だね〜」と話しかけてきたので、春風やばすぎるトークをした。うっすら、ずっと八角の香りがするお店。牛肉麺、美味いかった。現地の味っぽい。また行きたいな。お店にも、台湾旅行にも。

 

今まで読んでみた本とはかなり角度が違ったので、これはこれで面白かった。15年くらい前の本だから状況は改善していると思いたいが、どちらかと言うと悪化してるんだろうな、とも思う。不安を煽ってくる論法には気をつけたい。私は規格外のルートを通っている上、今の会社も学歴をあまり重視しないので「東京の競争社会がヤバい!」みたいな話にもあんまりピンとこない。いまいち事情が何もわからなくてホントすまんな、の気持ち。(だから本を色々読んでるっていうのもあるんだけど)何にせよ親は冷静に、だな。

個人的には英語ができると何かと便利だし楽しいので、ある程度の英語は習得したらいいなーと思っているけど、それは自分の内側に動機がないと難しいことだよなと言うのはわかっている。なので、色んな種をできるだけ、ささやかにまきたい。芽吹くかどうかは本人の意向次第なので、できるだけ関与はしない。

放課後の音符(キーノート)/山田詠美

TED Talkで聞いたLaurie Santosのお話がとてもよかったので、彼女のポッドキャストをフォローしてみた。The Happiness Labは、科学的な見地から、幸福感をテーマにしたポッドキャスト。めちゃめちゃ面白い。日本語コンテンツでこういうポッドキャストも増えればいいのにな。

www.pushkin.fm

この"不幸な億万長者"の回が興味深かった。宝くじで億万長者になった後、(よく聞く話ではあるが)家庭が崩壊して最後は自殺をしてしまった男性と、イラク戦争で大火傷を負って大きな障害を負ってもなお、それから20年経った今「自分は恵まれてる」というまでになった男性の話。そして"精神的免疫システム"の話。私はけっこう不安が強いタイプなので、この"精神的免疫システム"の概念を知ることができたのはよかったな。

 

今日は三日ぶりにウォーキングできた。夫が出張から帰ってきた。少し日常に戻った。のかもしれない。

 

20年以上ぶりの再読。

先輩(高校生)と先生との恋とか、今の倫理観ではNGな内容もあるけど、それはどうでもいいので子に読んで欲しい小説ナンバーワンでありながら、親が勧めて読むような小説ではない気もして、こっそり読んで欲しいなぁと思う。まあでも、勧めるかな。Bad girls go everywhere.

思い出トランプ/向田邦子

気候のせいなのかコーヒーの飲み過ぎなのか、自律神経が狂って動悸がするようになってしまった。ここ二日ほどはコーヒーを絶っていて、それが功を奏しているのか動悸は消えたけど、絶好調というわけでもなく、雨のせいで若干気だるいし眠い。いや、眠いのはコーヒーを飲んでいないからな気もする。うまい塩梅のところにピンと針を通すように行きたいのだが、どうにも行かなくて揺ら揺らしている。これが春だと言われればそれまでなのだが。

先週は朝のウォーキングの途中で自分で入れたコーヒーを飲んで、公園の真ん中でぼうっとひと休憩というのがとてもストレス発散になったので、天気が晴れたらまた再開したい。コーヒー飲んでも大丈夫に戻ってますように。(デカフェの豆もあるにはあるけどさー)

 

句会をもう少し増やしたいけど、これ以上定期的な夜の外出は入れたくない(現在月三回)。とはいえ、休日の昼間の定期的な外出も難しい。メール句会に参加してみようかな、とか、あれとこれとを入れ替えて、とか、色々模索中。むんむん。

 

短編集。さりっとしたものが胸を過ぎる。かつてはそこにあり、今はもうなくて、だけどたぶん本質的には似たようなことを、繰り返しているのだろうとも思う。

検証ナチスは「良いこと」もしたのか?/小野寺拓也・田野大輔

一気に春っぽくなってきて、もう桜が咲いたらどうしようと思い駅前の桜を観察してきた。まだ芽はあまり膨らんでないように見えてちょっとホッとした。立秋になっても全然秋らしさは押し寄せないのに、立春を過ぎたら怒涛のように春が厚を増してくる。まあ、大雪は降りましたけれども。東京の雪は二月が多い気がしてる。

 

10代をドイツで過ごしたので、現地で受けていた教育の中で「戦争」と「ナチ」が占める割合の多さというか重さというのは、かなり強く覚えている。遠足で行ったアンネの家を筆頭に、街中に郊外に残るちょっとした戦跡にも、課外授業として何度も足を運んだ。1990年後半では、冗談でも茶化したり、あるいはナチを擁護できる雰囲気ではなかったし、ネオナチで外国人や避難民住宅(住んでいた地域の近くにもあった)が襲撃される事件も度々起きていたから、現在進行形の怖いこと・悪いこととしての実感……というか、やはり「重さ」としか言いようがない深刻さを感じていた。

 

なので、2000年以降の日本のインターネッツで時折ナチをかっこいいものみたいに取り扱ったり(制服とか)、あとは、こういう、良いこともした、というような言説が上がってるのを見るたびに、何というか、実感としてはギョッとしていた。あとは一世風靡した国擬人化のコンテンツについても、ギョッとする気持ちが微妙にずっと拭えなかった。そのコンテンツやコンテンツが好きな人に対して不謹慎だ!と断罪したいわけではなくて、ただ「重さ」が消えないが故の違和感を言葉にできずにそのまま避けてしまったというだけのことなんだけど。

だからある意味、その「重さ」がそのまま「重石」になって、それ以上のことを考えたり調べたりするストッパーにもなっていたのかもしれん、とは、この本を読んで思った。

邪悪さの解像度が上がったというか、邪悪と狡猾さは最も両立させてはいけないんだなということを改めて実感するとともに「ナチスはいいこともしたんだよ」と言っている人がいまだに出てくることが、プロパガンダ政策の旨さであり怖さであるんだなとも、実感とともに学ぶ。

 

鴻上尚史さんがアウシュビッツ強制収容所に見学に行った時の話で、現地のガイドからアウシュビッツは15歳〜25歳の間に見学されることが推奨されている、というエピソードがあった。15歳より早いと衝撃を受け止めきれずにトラウマになる、25歳を過ぎると偏見なく公平な目で受け止めることが難しくなるから、ということらしい。

私は小学2年生の時にはだしのゲンのアニメを見て(たまたま見たのか、見せられたのかは覚えていない)、かなりのトラウマになりその後長年苦しんだので、そういう指標はある程度必要だよなと感じた。アウシュビッツには行ったことがないが、ダッハウ強制収容所に見学に行った時は、14歳だったと思う。(それまでの学校教育で)前知識がかなりあったこともあり、はだしのゲンほどのトラウマではないけれど、言いようのない重さはあそこで得たものが大きいと思う。