october notes

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検証ナチスは「良いこと」もしたのか?/小野寺拓也・田野大輔

一気に春っぽくなってきて、もう桜が咲いたらどうしようと思い駅前の桜を観察してきた。まだ芽はあまり膨らんでないように見えてちょっとホッとした。立秋になっても全然秋らしさは押し寄せないのに、立春を過ぎたら怒涛のように春が厚を増してくる。まあ、大雪は降りましたけれども。東京の雪は二月が多い気がしてる。

 

10代をドイツで過ごしたので、現地で受けていた教育の中で「戦争」と「ナチ」が占める割合の多さというか重さというのは、かなり強く覚えている。遠足で行ったアンネの家を筆頭に、街中に郊外に残るちょっとした戦跡にも、課外授業として何度も足を運んだ。1990年後半では、冗談でも茶化したり、あるいはナチを擁護できる雰囲気ではなかったし、ネオナチで外国人や避難民住宅(住んでいた地域の近くにもあった)が襲撃される事件も度々起きていたから、現在進行形の怖いこと・悪いこととしての実感……というか、やはり「重さ」としか言いようがない深刻さを感じていた。

 

なので、2000年以降の日本のインターネッツで時折ナチをかっこいいものみたいに取り扱ったり(制服とか)、あとは、こういう、良いこともした、というような言説が上がってるのを見るたびに、何というか、実感としてはギョッとしていた。あとは一世風靡した国擬人化のコンテンツについても、ギョッとする気持ちが微妙にずっと拭えなかった。そのコンテンツやコンテンツが好きな人に対して不謹慎だ!と断罪したいわけではなくて、ただ「重さ」が消えないが故の違和感を言葉にできずにそのまま避けてしまったというだけのことなんだけど。

だからある意味、その「重さ」がそのまま「重石」になって、それ以上のことを考えたり調べたりするストッパーにもなっていたのかもしれん、とは、この本を読んで思った。

邪悪さの解像度が上がったというか、邪悪と狡猾さは最も両立させてはいけないんだなということを改めて実感するとともに「ナチスはいいこともしたんだよ」と言っている人がいまだに出てくることが、プロパガンダ政策の旨さであり怖さであるんだなとも、実感とともに学ぶ。

 

鴻上尚史さんがアウシュビッツ強制収容所に見学に行った時の話で、現地のガイドからアウシュビッツは15歳〜25歳の間に見学されることが推奨されている、というエピソードがあった。15歳より早いと衝撃を受け止めきれずにトラウマになる、25歳を過ぎると偏見なく公平な目で受け止めることが難しくなるから、ということらしい。

私は小学2年生の時にはだしのゲンのアニメを見て(たまたま見たのか、見せられたのかは覚えていない)、かなりのトラウマになりその後長年苦しんだので、そういう指標はある程度必要だよなと感じた。アウシュビッツには行ったことがないが、ダッハウ強制収容所に見学に行った時は、14歳だったと思う。(それまでの学校教育で)前知識がかなりあったこともあり、はだしのゲンほどのトラウマではないけれど、言いようのない重さはあそこで得たものが大きいと思う。