october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

NODA・MAP『Q 〜A Night At The Kabuki〜』観劇レポ(再掲)

2018年の「贋作 桜の森の満開の下」はチケット取れなかったので、「足跡姫」以来、多分2年ぶりの野田地図、そして観劇。足跡姫の時はここの託児ルームで初めての託児体験もしたんだったな、ということを思い出しながら、池袋・東京芸術劇場に向かった。野田地図を見る時はいつもそうなんだけど、事前のインプットゼロ状態で行ったので、てっきりフレディーマーキュリーの生涯をなぞらえたサムシング(MIWA的な)を想像していていたらまったく違いました。そりゃそうだ。そしてQueenの曲にそんな詳しくないので、正直今回は少し予習していけばよかった、とも思ったり思わなかったり。

前半は、裏表、現実と虚構、過去と未来、源氏と平家、舞台セットと同様にぱったんぱったん入れ替わり立ち代りの何とか不幸な未来を回避しようとする源氏と平家になぞらえたロミオとジュリエット。何とかあのロミジュリのどうしようもない結末を変えようと、30年後の「それからの瑯壬生(ろみお)」と「それからの愁里愛(じゅりえ)」が、現在の「瑯壬生」「愁里愛」をサポート(??)しながら、ドタバタすすむラブコメディ。そこから一転、後半は不幸なすれ違いによる死を回避してもなお、魂は立ち止まったまま、戦争に巻き込まれていき時間と場所に引き裂かれていく虚構の中の現実の話。そして、いつものことながら言葉遊びに演出にと腹を抱えて笑っている間に、取り返しのつかない場所にたどり着き、あの戦争の追体験。今回のテーマはシベリア勾留と歴史の狭間に置いてこられた名前を奪われた戦士、否、男たち。取り返しが付かない、そして誰も責任を取らない、失われた命と人生について、そこにあったはずなのに奪われてしまった愛の言葉が、届かなかった手紙として、息を吹き返す。笑っていたのに泣いていた。抱き締めたかったね。そうだよね。

広瀬すずのはっちゃけた可愛さも、志尊淳のあやうさと美しさも、松たか子の存在の安定感も、上川隆也のどうしようもなさも、もう全部最高だった。もしロミオとジュリエットに続きがあったら、きっと上手く行かなかった、ただの若さの勢いだ、みたいな話はよく聞くけれど、そりゃそうかもしれないとも思うけど、それでもただ純粋に純粋に相手を思い続けること、失ってしまった面影を追い続けること、どんなに愛おしくても、どんなに抱きしめてすり抜けていってしまうものについて少しでも丁寧に想いを馳せると、何かもう、人間の短い生涯の中の、強烈な閃光のような恋の一撃がどれほど尊く、かけがえのない価値があることなのだろう、って呆然とする。胸に手を当ててみてもそんな恋したことない身としては、分かったようなことなんて何も言えないや。

最後のシーン、面影の二人が抱き合っているところから、それからの二人に順番に変わっていくところ、そして最後に松たか子が上原隆也の腕を、やわらかくすり抜けて行ってしまうところで、本当に泣いた。恋していた、愛していた、その余韻すらもう抱きしめることはできない。

そして、いつも繋がるあの戦争のこと。名前を失ってまだ帰れない人たちのこと。何もかもが過去の悲劇じゃなくて、何もかもが現在進行形のことだと、思い出す。母方の祖父はシベリア帰りだったけど、その話は直接は何も聞けなかったなぁ。

それにしても、竹中直人竹中直人~!!って感じなのに演技が上手すぎて「演技が上手い人は演技が上手い!!」というとても頭の悪い感想を呟いてしまった帰り道。もちろん他の役者さんも全員。野田秀樹もいつもの野田秀樹。一緒に行った友だちが「最近の秀樹はいつもおかっぱのババアだよね」と言ったのが面白すぎて大笑いしてしまった。はー。Queen聴こう。


※去年の10月に別のアカウントで投稿した文章です。アカウント作り直したので再掲です。