october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

俳句あるふぁ 2021年春号【自選200句で読む柿本多映の俳句世界】

金曜日、朝から雪を求めて近所の公園に行き、溶けてしまう前になんとか雪合戦と雪だるま作りのタスクを果たした。公園には幼子が一人しゃがんで入れるかな?というくらいのちいさなかまくら(土まみれ)もあり、東京の子どもたちの雪遊びの執念を見る。中をのぞいたら雪だるまがいた。ラーメンを食べて帰り、午後は疲れてちょっと寝てしまった。夕食はカレー鍋。最近はスパイシーなカレー鍋の素しか売ってないから、バーモント甘口で作った。

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土曜日、2週間ぶりに子の習い事。その後は久々に一人で美容院に。街は割と混んでいた。半端な時間の予約だったため、昼食を食べそびれる。バレンタインの催事場は、コロナ前に比べたら人は少ないけどそれでもけっこうすごかった(エスカレーターから眺めただけ)。外にポップアップできていたお店には並んでる人がほとんどおらず、某地方の有名なお店のシュークリームというのを買った。やたらとラメが強いアイシャドウをしていたスタッフさん(手際的に、おそらく普段はケーキ屋で働いている感じではないのだと思う)に、「ここのパティシエは元バリスタなんですよ!!」って3回くらい言われたんだけど、帰り道の間ずっと「それが……どうしたんだろう……?」と思い続けていた。いや、バリスタでも全然いいけどそれとシュークリームに一体どんな関係が?シュークリームは美味しかったのだが、値段の割に小さい上にサイズのばらつきが激しくて、これって売り物としてどうなんだろう……て少し思ってしまった。夕食は、大人はハヤシライスとカブと生ハムのサラダ、菜の花のお浸し、子はハヤシを食べないので無印のレトルトカレーにチーズをかけたもの(しまった、昨日とカレーが被った)。三体を聴き終わった。みんなシーチアンがいないと泣いちゃうバブちゃんだった。

 

日曜日、天気が悪いので家族全員でおもちゃの整理をした。子はどんな小さくてもう遊ばないおもちゃでも捨てるのは抵抗を示すので「赤ちゃん用のおもちゃを整理しておねえちゃんのおもちゃだけにして、ここにひみつきちテントを作ろう」と誘導。あとは「これはもうあかちゃんのおもちゃだから従姉妹ちゃんにあげよう」というとすんなりバイバイできた。しかし、弟に電話して聞いたら「不要」とのことだったので、ひとまず大物おもちゃは倉庫サービスに入れようかな……。ハッピーセットとか、バスボムから出てくる小さなフィギュアとか、ガチャガチャのおもちゃとかは、3ヶ月くらいで自動的に消滅するようにしてほしい。昼ごはんはパスタ。夕食は、唐揚げとお星様ポテト、(大人は)ルーロー飯、菜の花のお浸し、トマトサラダ、いそべ竹輪、なめこの味噌汁。ルーロー飯は無印のレトルトだけど、茹で青梗菜と温玉を乗せたのでなかなか豪華にできた。ストウブで温玉を作ったところ、加熱時間が少し短すぎたみたいで生卵と温玉の間みたいなものになったが美味しかった。最近唐揚げの衣に少しパン粉を混ぜることにハマってる。カリカリになって美味しい。

 

俳句を始めたのが2020年で、近所の本屋には角川俳句しか置いていなかったので、俳句あるふぁのことはあまりよく知らなかったんだけど、去年廃刊になる際にタイムラインで話題になっていたので、Amazonで買ってみた。でもじっくりと目を通せていなかったので、2回目の春でようやくパラパラと開いてみる。

「特集 俳句と生きる」のエッセイがどれもとても良かった。

編集部による「震災と俳句の10年」も、心に刺さるものがたくさんあった。よく考え、悩むことが多い命題なので、これからも何か思った時には読み返す拠り所にしたい。

角川俳句はほぼ寄稿文だと思うのだけど(それはそれで良いものだけど)、俳句あるふぁは編集部による文章がけっこう色々なところにあって、それもすごくいいなと思った。雑誌全体を包む、俳句への愛着と信念のようなものをより感じた。もっと読みたかったな。あまりにも遅かった……!!

そして「かけ出し俳人のための心得教室」は、アーカイブまとめて本にしてほしいと切実に思います。

 

俳人の特集では「柿本多映の俳句世界」として自選200句が載っていた。
こちらが本当に良かったので、そこから10句鑑賞を書いてみたいと思う。


真夏日の鳥は骨まで見せて飛ぶ
カッと目に飛び込んでくるのは、極限まで世界と対抗する命の鮮やかな姿。少しでも気を緩めれば大きくこちらを飲み込んで来ようとする夏に抗うように、鳥は骨が見えるような激しさで羽ばたいている。空の青さや、入道雲は見えない、そこにあるのは強烈な命の在り様のみ。

また春や免れがたく菫咲き
中七下五が、強く刺さった。花が咲くのは普通は喜びなのに「免れがたく」と、避けられない運命であるかのような、どこか苦しみを感じさせるのが印象的。でも実際の春はそういうところがあると思う。「また巡ってしまった」と、思う時、それはいつも春なのだ。そして私の年代にとって「また四月が来たよ」は、椎名林檎のギブスの一節。大きな喪失を飲み込めないまま、また春が来る。

百年後眼窩に菫咲かせをる
そしてまた菫。百年後の春もまた免れがたく、私という存在が朽ちた後もその骸を苗床として花が咲き溢れるイメージ。この句で真っ先に思い浮かべたのは「僕の地球を守って」の紫苑の最後だ。木蓮は歌い続け、植物は育ち続け、紫苑の骸に花が咲き、そして地球にはこれからも、これからも春が来る。君がいない春。でも、君がいる春。

寒卵死後とは知らず食べてゐる

少し怖い。死んだ後も、そうとは気づかずに寒卵を食べて精を得ようとするナニカ、の句にも思えるが、ふと、これもまた命をいただいているということをすっかり忘れて気楽に「タンパク質ぅ〜」と卵を食べている自分のことであるようにも思えていくる。


てふてふやほとけが山を降りてくる

最初は、田舎ののどかな道で子どもが蝶々と遊んでいるところに、葬列が山から降りてくる景をイメージした。その後、特集を読み進め作者の来歴を知るにあたって、もしかしたらこのほとけは死者ではなくて本当のほとけの姿なのかもしれない、とも思った。子どもだけに見える、トトロみたいな。(いきなり台無し)


たましひを纏ふ春の音がする

冬を越えて、たくさんの命を抱える春が来る。その発想自体は、春の俳句としてはよくあると思うけど、それをこんな擬人化(かな?)で描かれると、まったく新鮮な気持ちでハッとする。たくさんの魂をまとって、しゃらしゃらと繊細な音が聞こえるようだ。


躾糸抜いて落花に加はりぬ

やわらかい光が差し込むところに、音もなくゆるりと落ちていく糸、そこに重なる落花の系がとても綺麗。日常の切り取りがこんな静かで美しい場面になるって、なんというか、俳句という詩形ってすごいなと感じた。


かたつむり受話器鳴る時消えてゐる

明確に言葉にならないもやもやとした思考やアイディアが固まる前のふわふわとした種のようなもの、一人でぼんやりと家の中にいる時に、「考えている」と意識すらしていない考ごとが、受話器が鳴る瞬間に綺麗に霧散してしまう。あ、いると思った次の瞬間には、意識から消えているような梅雨の日のかたつむりのように。

思い出し笑いや両手に柿提げて

生と死の狭間を切り取るような句が多い中で、この句はあまりにも愛おしくて好きだった。「思い出し笑い」って、日常を慈しむ中で溢れることが多いと思う。両手から提げた柿の重さも、また何気ないけれど確かな幸福なのだ。


面影に手を入れてゐる秋の暮

面影に手を入れる。自分の頭の中にある誰かの面影に、じっくりと向き合う。ふと違う角度で、違う表情が見えるかもしれない。もしかして、こう思っていたことは、本当はああだったのかもしれない。そんな思いが過るけど、確かめることはできない。面影は面影なので、しゃべることもない。ここにいない誰かを静かに思い更けるのと、秋の暮の寂しさ、薄暗さがとてもよく響き合ってる。

 

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