october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

ネット右翼になった父/鈴木大介

Twitterを止めてからゆるーく始めたSNSは色々あるのだが、古くからの友達が多く移動(避難含む)しているのもあって、最近はタイッツーにぼちぼちいる。

タイッツーというのは日本人のエンジニアのほくさんという方が作ったSNSで、最初は冗談みたいなアレだったのに、日々どんどん進化していて、今はアイコンも変えられるし、RTやいいねもできるし、画像も添付できるようになったし、鍵垢にもできるし、センシティブ対応つぶやきもできるし、ハッシュタグ使えるし、ミュート・ブロックもあるし、人のいいねは流れてこないし、宣伝も流れてこないし、見たくないツイートを「おすすめ」と言って眼前にごりごりと押し付けられるようなこともないので大昔のツイッターみたいにのんびり使える。

ただ、本当に大昔のTwitterと同じくリプができない。そしてDMがない。

そして、このリプやDMがない、つまり、人類皆壁打ちみたいな状況が、実はタイッツーの一番の良さで、気に入っているところだったりする。もちろん時折不便さは感じないわけではないけれど、その不便の壁に守られた大きな自由を手にしている。友達のつぶやきは見れる。近況は知れる。なんとなくエアリプを飛ばすこともできる。でも、それくらい。返信しなきゃ、とか、連絡しなきゃ、とか、そういうことは考えなくていいのだ。

あと、他人から他人へのリプみたいなものを見るだけで削られることが、わりとあったかな思う。これはもう、誰が悪いのではなくてTwitterが巨大コミュニティになりすぎてしまった弊害だと思うのだけども。近いところから、遠いところまで、いつもどこかで誰かが揉めていてそれがRTで常に回ってきていて毎日毎日そういうのを見ていて、なんだろう、この世の問題を知ることは大事だとわかっているからこその責任感でそれを全て受け止めようとしていたらRT見ていただけなのにとても疲れちゃった、ということがよく起きていた。でも友達のツイみたいからなー、と、続けてたんだけどさ。

そののんびりとした繋がりがタイッツーにはある。社会問題は本やメディア記事を読むことで考える。

なので、リプ機能がないタイッツーを今のところ愛しているし、人もできれば超増えすぎないで(もちろん知り合いが始めるのは嬉しいし増えてほしいけど)、あのゆるーい世界がこのままゆるーく続いたらいいなと思っている。

taittsuu.com

 

ゆるいSNSといえば、もうかなり前からgravityというのがあった。よくTwitterに広告が流れてきていたからそれなりに知名度はあると思うんだけど。2年くらい前に、やっぱりTwitterが嫌になってgravityも試してみたんだけど、3日くらいでやめちゃったんだよね。何が違ったのかなーと思い返してみるに、gravityは性別入力が必須で、その上、その入力した性別でアイコンが決まる。女性、男性それぞれ8パターンくらいの似顔絵アイコン(ほぼ髪型が違うだけで同じ絵柄の顔)から選んでそれが規定アイコンになる。私が始めた時は女はピンク背景、男は青背景で固定だった気がする。その状態のタイムラインが、なんかディストピアって感じだったんだよね。なんて、狭いんだろうって苦しくなってしまって。あと完全匿名SNSというのがウリだからなのか、友達と繋がれるわけでもなく、流れてくるのは何故か愚痴やぼやきが大半で「私は何をみさせられてるんだろう」と思って、やめた。友達の愚痴なら受け止めるよ。でも同じ顔アイコンの匿名愚痴垢タイムラインを何のために見るのだ?と思ってしまって。まあ使い方が下手だったんだと思う。合う人には合うんだろうな。

 

まあ、タイッツーも最初みんなタイツだったんだけどね。老若男女皆タイツ。でもこれは別にディストピアを感じなかったんだよな。

ちなみにこれは今通っている俳句講座の先生が言った言葉に対する感想です。

Tabioとコラボしてるのもいい感じだ、タイッツー。トラウマを思い出すからAts●giは絶対にこないで欲しい。

 

著者が父の死後すぐにデイリー新潮に寄稿した『亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか』という記事は当時読んでいた。この本では、どうして、そうなってしまったのか……ということをさらに掘り下げていく……わけではなくて、むしろ、本当にそうだったのか?本当は父は何を考えていて、どんな価値観があって、どんな人間だったのか?と言うことを、周りのいろんな人の証言や、あるいはネトウヨとは何かを含めた自分の理解の掘り下げなどを繰り返して検証していく内容だった。その過程で著者は自分の中にあった偏見や決めつけにも存分に向かい合い、丁寧に解していく。誰かと向かい合うと言う行為はとても苦しくて、だけどそのほどけた隙間に差別主義者じゃない、人間としての父が見えてくる。

著者も何度も指摘しているけれど、ヘイト言説とは別の方向性でも、家族の間で価値観がズレてしまうことは、特に311以降本当に増えたと思う。各種のヘイト言説やフェイクニュースやQアノンや自然派やワクチンや放射能に纏わる家族の分断は、ニュース記事でも何度も読んでいるし、身近なところに潜んでいる。私も身内が時折Qアノン的なことを言うので、できるだけさりげなく訂正するか、あるいはスルーするかのどちらかを選ぶのだが、その度にいやーな澱が胸の奥に溜まっているのを感じている。ワクチンに関することで深刻に割れてしまった友達の家族も知っている。

でもそうした時に、どう考えていったらいいのか。相手を理解するために何を検証していったらいいのか。この本では、その具体的なプロセスがとても勉強になった。自分の中に決めつけや偏見はないのか。「A」と言ったら、「Aという人なら、つまり他のことに関してもBでCでDとか言う●●主義者のはず!!」と、芋づる式に相手の価値観全部を決めつけて、それに仮想敵のように簡単にレッテルを貼り付けたりしていないか。「自分ばかりが正しい(正義)と思っている」と相手に言う時、それは誰が口にしたとしても大体がブーメランで、分断を深める以外のことはしないことに気づいているのか。そうした分断の先に、戻る手立てはあるのか。別に敵にしたいわけでも、責めたいわけでもないのだ、本当は。

「家族が分断した時にはこうしたらいい」というような本ではないのだけど、でも、何かしらの自分が考えるきっかけにはなる本なんじゃないかなと思う。「価値観の定食化」という表現はとてもよく理解ができて、それはやっぱり自分の思考を深める文脈で考えていきたい。