october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

「つけびの村」 高橋ユキ

先週末、子がまた熱を出した。3月から数えて7回目。耳鼻科で貰った鼻スプレー(アラミスト)のおかげか、直近3回は抗生物質なし・2日で解熱できるようになったはよかったが、今回は咳を伴う風邪だったので緊張した。とは言え、咳は発熱の一週間前から寝ている時だけ、痰が絡む、肺炎の症状はなく、小児科でも大丈夫と言われたのでPCR検査は受けていない。何よりハイパー濃厚接触者である我々(両親)にうつってないし。でもこれから秋冬になるに連れ、またどんどん風邪を引くだろうし、これはもしや……と疑う瞬間は更に増えてくるのだろう。すべてにおいて心配性な私には若干気が重いのであった。

 

まあそれ以前に、子が熱を出すとしょんぼりするのは今も変わらずである。心配なのもあるし、週末やろうと思っていたことが全て吹っ飛ぶというのもある。その憂鬱を吹き飛ばす為、食料品の買い物がてら駅前の本屋をちょろっと覗き、気になっていた本を買った。

 

 

「つけびの村 噂が5人を殺したのか?」高橋ユキ

 

現代の津山事件か?とも言われた2013年に起きた山口連続殺人放火事件のルポ・ノンフィクション。限界集落と言われた過疎地区で起きた”最年少”60代男性による連続殺人と放火事件。当時はネットでも、Uターンしてきた男性(犯人)への村人たちの陰湿ないじめがあったとか、その復讐だとか、色々言われていたのは覚えている。

実際に被害者、遺族の方がいる犯罪のルポを手に取る時、自分の中の野次馬心(およびミーハー心)を意識し、若干の後ろめたさを覚えたりする。だけど、やっぱり好奇心には勝てない。そして図らずも、それがこのルポの奥底に横たわる主題なのかもしれない……と感じた。

現実はフィクションとは違う。著者が淡々と重ねる取材で、淡々と詳らかにする事実の断片も、真相を綺麗に整えはしないし、驚きの展開もない。この本を最後まで読んでも本当に何が起こったのかを知ることは不可能だ。だけど人々の話の断片からは、薄ぼんやりと浮かび上がる不気味な、そして既視感のある闇が覗く。

うわさ。悪口。悪口を言われているのではないかという疑惑。疑心暗鬼。それが呼ぶ憎悪。更なるうわさ。悪口。疑念……うわさ。

コミュニティ人口が少なければ少ないほど(あるいは世界が狭ければ狭いほど)毒は早く回るし、目に見える奈落の大穴なら避けようも逃げようもあるけれど、ほとんどの場合それは普通の道に擬態したぬかるみで、足を取られたら容易には身動きが取れなくなる。

ゾッとするのは、見たことがあるからだと思う。

 

 うわさ話は我々にとって甘美な娯楽だ。
 眉をひそめながら小声で話していても、その心は躍り、どこか興奮している。
 うわさ話を重ねながら、人は秘密を共有した気になり、結束を固め、ときに優越感に浸る。私たちと同じように、郷集落の村人たちもまたうわさ話に耽っていた。事件の前も「コープの寄り合い」がなくなったあとも、そしてこれからも。
 私たちはどうか。
 村から遠く離れた地で、この事件のことをあれこれと語り、SNSで吹聴し、またそれを信じてきた私たちのことだ。
「彼は村八分にされていた」
「不穏な犯行声明を掲げていた」
 判決が確定し、事件が終結しても、折々に誰かがこんなふうに、うわさを長さ宇ことだろう。そして、また別の誰かがそれを信じ、新たなうわさを流すのだ。(P294)

 

帯にある「人々の闇と僕らの好奇心はつながっている」と言う言葉が、読み進むほど利いてくる。そうなんだよね。誰も無関係じゃない。どこかで起きた非常識な人たちの事件じゃない。誰にでも起こりうること……とはもちろん言わないけど、その好奇心は間違いなく人間の性(さが)の一部だ。

 

ものすごく面白かった。
そう。私の好奇心は、満たされた……。すみません。
(子が熱を出している夜に読んだので、少し疲れてしまったが)

 

*

 

津山事件(津山30人殺し)は、色々なフィクションのモチーフになっているが、私は山岸涼子の「負の暗示」という短編で知った。フィクションとは言え、決行に至る前の犯人の表情(無表情)がものすごく怖くて印象に残っている。今回の犯人も、あんな表情をしていたのだろうか、と妄想してしまうところもまた私の至らぬところである。

 

 

 

こちらに収載されています。表題の天人唐草もゾッとする名作。
(文庫版は収録話が違い、負の暗示は入っていないみたいなので注意)