october notes

俳句と小説と読書と記録と記憶

全員悪人/村井理子

大学時代、友人二人となんとなく将来住みたい町の話になって、二人とも「子供の頃から海が近くで生活していたから、海の側からは離れられないなぁ」と、言っていたのをとても覚えている。私は大きな川の側に住んでいたことはあるが、海の近くで暮らしたことはなく、彼女らを否定するわけではなくただぼんやりとその発想はなかったなぁと思った。そしてそれからたまに海の近くで暮らすということは、どういう感じなんだろうなぁと、思いを馳せている。

私にとって海は、たまに遊びで行くところで、旅先で訪れるところで、飛行機の上から眺める存在だった。海はいつだって特別な"非日常"の中にあった。

二十代半ばで実家を出て一人暮らしを始めようとした時は、実家と違うエリアに住もうと思ったのに母に大反対されて結局車で15分のところに暮らししていた。それから同棲や結婚や妊娠に伴って何度か居を移したが、なんだかんだずっと同じエリア住んでいる。もちろん海は近くにない。

最近、セカンドハウスの記事を見て、二拠点生活良いな〜〜〜って気持ちが膨らんでいる。夫婦共々在宅勤務で在宅保育もしているならば、わざわざ狭いマンションで息を潜めて暮らす必要もないのだ。もう少し感染が収まったらどこかにウィークリーマンションか貸別荘を借りて、自然の多いところで1ヶ月くらい暮らしてみたい。できれば、海の近くで。

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いつぞやの沖縄の海

 

 

全員悪人

全員悪人

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家族が認知症になった。悪気はない。それでも周囲に迷惑をかけてしまう。家族以上に戸惑い、苦悩しているのは本人なのではないか。いろんな事件が起こる認知症当事者と家族の日々。

村井理子さんの翻訳本とエッセイが大好きだ。文章の隅々まで行きわたる熱を溶かした優しさと、エンターテインの心、そして、それで紡がれるからこそ、飲み込むように読める、人生の端々の苦節と哀愁と。

いつか誰もが、家族として、あるいは当事者としてたどり着く可能性がある認知症の世界。どこか可笑しいのに、切なくて、壮絶で、それでも、これも日常なのだ。

老いるとは、想像していたよりもずっと複雑でやるせなく、絶望的な状況だ。そんななかで、込み入った感情を抱くことなく必要なものごとを手配し、ドライに手続きを重ねていくことが出来るのは私なのだろう。これは家族だからというよりも、人生の先逹に対する敬意に近い感情だと考えている。彼らの一番の味方であり続けたい。

 

そういえば、村井理子さんは琵琶湖沿いに暮らしている。湖もまた、海とは違う魅力があるんだろうな。